頃から取りかゝつてゐた或る私の連作的小説を私は、十二月に入つて間もなく書きあげた。
そして何時も私小説を書いた後に感ずる、誰とも顔を合せたくないやうな心で、私は、この怪し気な日光室の椅子に凭つてゐた。――時には、犯罪でも行つたやうな胸の動悸を覚ゆることもあつたが、今度はそれは稍々軽い気がした。――「毒舌」といふ題をつけたのであつた。はかなく後悔の念にも唆られてゐた。
自分の息の臭いことを怖れるといふことなどもその小説の中に一寸と書いたのであるが、ふしだらな飲酒と不健康な執筆の揚句で、一層胃が悪くなつたらしく、折角の日光室が刻々に自分の息で濁つて行くやうな気がして、私は時々硝子戸に隙間をあけて外に向つて太い吐息を吐いた。
この前の小説も今度のも、近所に借りてある部屋で書いたのであるが、斯んな風にこの明るい一隅で沁々と日光に浴してゐると、この次には此処で、何か小品見たいなものを書いて見ようかしら? などゝ私は思つて、も少し此処を完全に区ぎることを画策したりした。
「うしろの幕を扉にして――そして、硝子戸の上あたりに息抜きのやうなものを作らうかな?」
――「当分、こゝを俺の部屋にしようと思ふからね……」
私は、顔の見えない幕の中で、浴室の中から外の者に声をかけるやうに呼ばゝつた。
「部屋?」
「こゝで好いんだよ。」
「ぢや、八畳の方は子供の遊び所にしてしまつても好いの?」
「いゝよ……」――「だけど、寒い日には困るだらうな。」
「寒い時には今迄の方へ行つたら好いぢやないの、――それだつて、今までだつて毎日出かけてゐたわけでもないし……」
「もう好いよ。」と、私は、繊細い声で呟いだ。
私は、椅子に坐り、テーブルの上に脚をのせてゐた。風がないので、細く吐き出した煙草の煙りは天井まで伸びて行つた。――私は、棚の上からいつか描いた自画像を取りおろして、そこに立てかけて眺めたりした。スケツチ板の小さな油絵である。
これを見て、これが私の自画像であると思つた者はあまりなかつた。いかにも技が拙くて、似てゐないのである。それでも自分では何となく自分の片影が出てゐるやうに自惚れてもゐたが、今見直して見ると余計な力ばかりを入れすぎて、筆致が奇形にとげとげしくなり、色彩なども極めてあくどくなつてゐるのが好く解つた。或る友達が、何時かこれを見た時に、
「何処かの国の仮面《めん》を書いたのか? だが、さういふ静物としても……」と、笑ひ、私は一寸と不興を覚えたことがあるのだが、今ではその批評もあたつてゐるといふ気がした。
「仮面《めん》ぢやないよ。」と、私は、その時抗議を申したてようとしたが後が続かなかつた。
「山あらしの肖像画か?」と、彼は、更に皮肉を云つた。
「…………」
「そんなにまで云はれたら君も憤《おこ》りたくはならないかね。」
「え?」
「山あらしの肖像画といふのはね……」
さう云つて彼は、その言葉の出所を説明したことがあつた。
西暦千八百十何年かの話である。ノア・ウエブスターがその郷里のハートフオードでその[#横組み]“Speller”[#横組み終わり]を出版した時のことである。この時に著者の肖像画を口絵にして掲載したのであるが、あまり印刷に凝り過ぎたゝめに反つてその肖像画は本人とは似もつかぬ異様なものになつてしまつた。頭髪は針のやうに一本一本逆立つてゐた。そして眼は、ぎよろりとして頭髪と同様な太い線で露はにむき出してゐた。で、この口絵は恰も山あらしの肖像画を掲げたかのやうな怪貌になつた。だが著者は、この印刷を認め、自信を持つて堂々とその下に[#横組み]“Noah Webster”[#横組み終わり]と署して発行した。――ところが常々著者の行動に反感を抱いてゐた村の連中は、この一個所を楯にとつてあらゆる方法で彼を攻撃し嘲笑した。或る者は著者に手紙を送り、宛名をわざと[#横組み]“Mr. Grammatical Institute”[#横組み終わり]と誌した。また[#横組み]“Mr. Squire, Jun.”[#横組み終わり]と呼びかけるやうに書き送つた者もあつた。そして念入りにも遺言状のかたちをとつて――私は、[#横組み]“Speller”[#横組み終わり]の著者某に西班牙貸若干枚を与へる、これはその著書に掲載の肖像画を改版すべき費用のためである、既著の如く著者[#「著者」に傍点]の醜怪なる肖像を巻頭に掲げるは、その読本に依つて勉学する児童の心を威嚇するものである、終ひには多くの児童の純心を傷け荒ましめ、やがては共和国の前途に憂ひを抱かしむるに至るであらう、速かに著者[#横組み]“Squire”[#横組み終わり]を読本の巻頭より追放すべし……等。初めは笑つて済ましてゐたが彼等の執拗さがあまり凄まじいので終ひに著者[#「著者」に傍
前へ
次へ
全6ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング