たかつた。
 若者は、激しく頭を振つた。――白い川が現れた。娘と自分が御者台に並んで堤を進んでゐた。……ミルク色の朝霧の中で若者は娘にキスした、――五体が忽ち底なしの硝子管見たいなものゝ中を急転直下して行くかのやうな怖ろしく甘い寒さに縮みあがつた。
「アハヴは腰の剣を抜き放つと、天を指して高唱した。――ロータスよ、別れだ!」
「え? 何うしたの――」
 と娘が眼を視張つた。口のうちで呟いたつもりだつたが、口に出たのか? と若者は気づいたが、アハヴとロータスの別離の場面がまざまざと眼の先に展開しはじめて、若者はたゞ呆然としてゐた。
「あゝ、さう、読んでゐる本なの? 面白い? 途中で話して!」
 娘はバスケツトをさげて立ちあがつた。
「ぢや、頼みますわ。」
 二人が御者台に並ぶと父親はタイキの轡を離した。
 いつか日は高くあがつて、飽くまでも明るく真ツ直ぐな街道が水々しく光つてゐた。遥かの行手にある橋は云ふまでもなく、その先の小山の麓の村から立ちのぼる細い煙までが、莨《たばこ》の煙りのやうに青い空に消えてゆくのが手にとるやうに見渡された。見透す限りに一直線の街道で、その対角線の中心を目差し
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