世はかくまでに老ひしかな……云々以下三|聯《スタンザ》から成るゲルマン族の牧歌を、奴は、滅茶苦茶にひつちやぶいて、マメイドといふ私が好意を寄せてゐる居酒屋の娘の頭に雪と散らした。その由を私はマメイドから聞いて、非常に自尊心を傷けられた。また彼は、マメイドに向つて、彼が私を目して、三通りの尊称を使ふのは、
「大馬鹿先生」――「自惚博士さん」――「貧棒の大先生」といふ意味なのだ――。
「それを知らないで、好い気になつて小鼻をふくらませてゐる格構と云つたら……」
 そんなことを云つて、ひとりで腹を抱へてゲラゲラと笑ひころげた――。
「先生、あたしは、ふんとに口惜しかつたわ、先生とあたしと仲が好いことを、あいつと来たら飛んでもない風に思ひ違へて、あんな博士とは喧嘩をしてしまへ、そして、俺と好い仲にならうではないか――だつて!」
 河原で摘んだ花束を携へて私を訪れたマメイドが、悲しみに首垂れながらそのやうなことを伝へたことがある。それに違ひない、好意を持つてゐると云つても私がマメイドに寄せてゐるそれは恋情沙汰ではない。この家の雪太郎は私と同年輩の三十余歳であるが、親想ひ、兄弟想ひの律義者で、営々としてこの水車小屋の経営に没頭し通しで、未だに妻も持たなかつた。私は、もう少し、この水車《すゐしや》が順調となつたならば、是非とも彼とマメイドとを夫婦にさせてやりたいものだ――と希ふてゐる、二人とも行末長く私の友達として苦楽を共にするに適はしい人物である――左う云ふ意味の好意なのだ。また、雪太郎父子は、見るかげもなく落ぶれ果てた私が妻を引き伴れて、もう長い間この家の二階に籠居してゐるのだが、恰も私を代官のやうに尊敬して、下にも置かぬもてなしである。いわれと云へば、昔、私の先々代の田畑がこのあたりにあり、その米を雪五郎がこの水車《みづぐるま》で搗いたといふだけの話で、寧ろ私方が憎まるべき不労所得の搾取階級に違ひなかつたのだらうが、そんなものゝ子孫を未だに有りがたがつて、私が町のあばら屋で寒さに震へてゐるといふことを聞くがいなや、米運びの馬車に赤毛布の座席をつくつて、鞭をならしてはるばると駆けつけたのである。以来私は、夫婦仲睦じく、この家に起居をつゞけてゐたのであるが、雪五郎の娘のお雪を襲ふアヌビス共の鋒先が日増に猛々しい火花を散らして乱入して来るといふまことに容易ならぬ状態に陥つたので、私達、男四人が一夜炉端に額をあつめて、よりより会議をこらした揚句、ひとまづ難を、こゝから流れに添ふて五里の山径をさかのぼつた唐松といふ部落へ避けしめたのである。唐松村は四方を嶮しい山にとり囲まれた明るい盆地の村で、気候温暖、産物に恵まれ、五十戸からなる大よその民家は酒造りの業を本業として、且また村人はこぞつて神楽用の仮面《めん》つくりの腕に長《た》け、春秋二季の祭りの季節となれば、自ら達が俳優となり、いとも原始的な仮面野外劇《ページエント》の団隊をつくつて村から村を打つてまはるといふ習性を持つてゐた。彼等の演劇に寄せる近郷近在の人気は、遠く西方の国のかのオルベルアムメルゴウ村の聖劇にあつまる世界各国の讚美の声の有様を眼のあたりに見るが如き概があつた。唐松村は、世にも稀なる平和の里であつた。国はぢまつて何千年、かつて、あらゆる戦乱のいさゝかの翼もこの村の空には夢ほどの影を落した験しもなかつた。それ故、さすがのアヌビス共であらうとも、唐松村ときいたならば二のあしを踏んで往生するであらう――と私達は一決したのであつた。その上、唐松村は雪五郎の故郷であつて、今なほその本家の後裔が昔ながらのさゝやかな酒造り業を続けてゐる。
 吹雪川――この水車をくる/\と回して、私達の露命をこゝまでつないできたところの吹雪川の流れを、森をくゞり、谷を渡り、野を越へて、あるときは流れのさまの岩に砕ける水煙りを浴び、またあるときは蔓橋のゆら/\とするおもむきに恰も空中飛行の面白さに酔つて、はるか脚下に咽ぶが如き水音の楽を聴き、迂余曲折、数々の滝の眺めに吾を忘れながら、ゑんゑんと上《かみ》へ上へと溯ると、いつしか「吹雪」は千鳥川と称び代へられて、うらゝかな酒造りの村に到達するのである。
 あの日、私の妻は、アメリカン・ビユウテイのスキー・ジヤケツに身を固め、頭には雪のやうに真白なターバン帽子をいたゞき、ほのぼのとして「春風」に打ち乗つた。お雪は、新しい紺がすりの袷着に赤い帯をしめて、脚絆草鞋にそよそよと、いでたちをとゝのへ、「白雲」に打ち乗つた。「春風」も「白雲」も共に私達の水車小屋の労働馬であるが、その日は特に七福神の舞姿を染め出した真新しい腹掛けを吊つて、朝霧のなかにしやんしやんと鈴を鳴した。そして「春風」の轡は雪太郎が、「白雲」のそれは雪二郎が共々に逞ましい腕により[#「より」に傍点]をかけ
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