い、この空つぽの臼頭奴が――」
とほき出した。――「こばから皆な杵に打たれて死んでしまやがれツ。」
それに続いてアービスの従者のアヌビスが、自慢のねぢくれ腕を、ぬつと、今度は、父親の雪五郎の鼻の先に突きつけて、
「金が返せないといふんなら、うちの若旦那の御所望通りに、うぬの娘をお妾奉公に出すが好いや。何も奉公に出したからと云つて、とつて喰はうと云ふんぢやない。斯んなぶつつぶれ小屋で、喰ふや喰はずの暮しをしてゐる貧乏娘が、俺らのうちの若旦那のお情けを蒙るなんて、夢にもない大した出世ぢやねえか、そんな妙佳も知らずに、一体娘は何処にかくしてしまやがつたんだい。やい、やい、やい、さあ、ぬかせ、娘の在所《ありか》を云やあがれえ。俺達一同は、手前達のぺこぺこお辞儀の体操を見物に来たんぢやないぞや――やい、この米搗きばつたの老ぼれ野郎奴!」
と、まことに(立板に水を流すやうに)ぺらぺらとまくし立てるのであつた。私は、立板に水を流すやう――といふ形容詞に不図出遇ふと、何とまあ見る間に、小川の流れがさんさんと水嵩を増して節も長閑に水車が回りはじめた光景が、ありありと眼の先へ浮びあがつて、胸が一杯になつた。思はず私は、眼を閉ぢて有り難い光景にふら/\と迷ひ込まうとした途端に、
「そつちの隅の大先生!」
と呼び醒された。見ると、それは米俵に大股をひろげてふんぞり反つてゐる鼻曲りのガラドウである。奴は泥棒である。昼間は、地味なネクタイなどを結び、胸にはさんらんたる金鎖を輝やかせて町の銀行で接待係などゝいふ紳士的な業務にたづさはつてゐる癖に、夜になると、云はゞ昼間のつけ[#「つけ」に傍点]鬚はかなぐり棄てゝ狐の性に反つて不思議な活躍に躍り出すのだ。現に私の或る彼の性と似通つた叔父貴と共謀して、私の死んだ父親が、愚かであればあるほどいとしい私の行末の生活を案じた上に数百町歩に渡るものゝ見事な蜜柑山を遺しておいたのを、私の老母をたぶらかして「私」の印形を手込めにして「負債証書」を捏造したとかといふ話だ。私は、断じて、そんな「山」などゝいふものゝ所有権に関心は持たぬのであるが、秋口から冬にかけてこの竜巻村の三方をとり囲む蜜柑山の壮麗な色彩りを見渡して野遊びの快を貪る日などに、番小屋の窓から叔父やガラドウが大きな眼を視張つて、蜜柑泥棒の監視をしてゐる姿を見ると、慌てゝ踵を回さずには居られなくなるのであつた。私は彼等の物慾を卑しむわけではなかつたが、その一味に肉親の者が加はつてゐるのを知つてしまつた事に鬱陶しさを覚ゆるのであつた。――ところで、このガラドウは、そんな類ひの所業が寧ろ仕事であつて、今では、山を越えた隣り町に住む私の叔父の屋敷つゞきの桃林の中にバンガロウ式の館を建てゝ、美しい妾を囲つてゐる。それは余談であるから説明を元に返すが、ガラドウといふのは私が与へた仇名であつて、つまり狐頭の化物の意味である。本来の和名は――此処に述べる要もないが桐渡鐐之助を、自ら最近、鐐通と改めてゐる。理由は解らぬのだが、私も考へたこともないが、姓名判断に従つた由である。それと同じく、地主のアービスは牛頭、従者のアヌビスは犬頭――共に私の命じた名前である。
「ねえ、先生。」
桐渡ガラドウは、さう繰り返しながら、自分の眼の方が米俵に腰掛けてゐるのだから、雪五郎の隣りに坐つてゐる私のよりは、はつきりと上段に据つてゐるのに、その視線をぐねりと波型にしやくりあげて、逆に、下から上へ私の頤をおしあげるやうに見あげるのであつた。私が彼に、鼻曲りといふ形容詞を冠したのは、彼の野蛮な皮肉味を抽象的に指さしたのであつて、実物の彼の鼻は、いつも私に昔噺の中にある業慾者の鼻にぶらさがつたといふソーセージを想像させる態の、赤味の滲んだ肉附き豊かな、何とも憎たらしいごろん[#「ごろん」に傍点]棒であつて、決して曲つてゐるといふわけ合ひではない。大先生とか、先生とか、何うかすると博士さん――などゝ彼は私を呼ぶので、もうせんには私は、真実彼が私を尊敬して斯く称ぶのかと思ひ、うつら/\として一処に茶屋酒を飲んだり、色紙を書いて贈呈したり、また、印判を証書見たいなものに捺したり、したこともあつたが、それは未だ私が彼にガラドウなどゝいふ仇名を付けぬ時分で、彼が屡々口にする通りに私の親友だと思つてゐたのだが、或時彼が、
「この判さへ捺させてしまへば此方のものだ。――薄のろ野郎奴が、好い気になつて斯んなものを書きやあがつて……」
さう嘲笑して、私の蔭で折角不得意の筆を執つて私が揮毫したところの、愛唱歌であるから何時でも私は空で覚えてゐるのだが、ちぎれちぎれに雲まよふ、夕べの空に星一つ、光りはいまだ浅けれど、想ひ深しや空の海、あゝカルデヤの牧人が、汝《なれ》を見しより四千年、光りは永久《とは》に若くして、
前へ
次へ
全11ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング