バラルダ物語
牧野信一

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)薄明《うすあけ》の

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)見事な|巻き落し《ヴオレイ》を

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+宛」、第3水準1−84−80]ぎとらうと

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)殆んどすれ/\になつて
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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[#ここから2字下げ]
俺は見た
痛手を負へる一頭の野鹿が
オリオーンの槍に追はれて
薄明《うすあけ》の山頂《みね》を走れるを
――あゝ されど
古人《いにしへびと》の嘆きのまゝに
影の猟人なり
影の野獣なり
[#ここで字下げ終わり]

 日照りつゞきで小川の水嵩が――その夕暮時に、この二三日来の水車《みづぐるま》の空回りを憂へたあまり、蝋燭のやうにめつきりと耄碌してしまつた私と此の水車小屋の主人であるところの雪太郎と、ふるへる腕を堪えて水底深く水深計を立てゝ見ると、朝に比べて更に五寸強の減水であつた。――私は、風穴に吸ひ込まれるやうな心細い悪寒を覚えながら、水面に首垂れて深い吐息を衝くと、不図自分の顔が、青空を浮べた水鏡の中にはつきりと映つてゐた。いつもいつも上手《かみて》の年古りた柳の影で、不断に轟々然たる物凄まじい響きを挙げて回り続けてゐる水車であつたから、このあたりの流れは白く泡立ち煮えくり返つてゐるすがたで、ものゝ影が映るなどゝは思ひも寄らぬのに――嗚呼、そこには私と雪太郎の上半身が微風《そよかぜ》の気合ひも知らずに、あざやかに生息してゐる。きよとんとして、水面を見あげてゐる。まさしく二体のニツケルマン(河童)に違ひなかつた。で、私は、もの珍らし気に、ものゝ怪《け》の顔つきを見定めてやらうと思つて、呑めるまで程近く水面に顔をおしつけて凝つと閣魔の眼《まなこ》を視張つた途端に、キラキラキラと突然水鏡が砕け散つた。
 柳の影を振り返つて見ると、水面と殆んどすれ/\になつてゐる水車が、乾いた喉に泉の雫を享けたやうに、物狂ほしく廻転を貪りはじめてゐた。
 私と雪太郎は、汀の葦の中にどつかりと胡坐をして、思はずそろつた動作で鉄の棒を持ちあげるほどの重々しい思ひで徐ろに腕組をすると、黙々として胸を張つた。
 柳の木の間から真向きにあたる川上の、恰度流れが悠やかに曲らうとしてゐるところに水門が構へてゐる。――見ると、水門の両端に二人の男が馬乗りになつて、此方を向いて腕を挙げながら切りと何か喚いてゐたが、水車の音にさへぎられて一向に声はとゞかなかつた。その腕の振り動かし具合は、見へざる敵の剣に、今や見事な|巻き落し《ヴオレイ》を喰はして馬上ゆたかに快哉の叫びを挙げてゐる颯爽たる騎士の姿に私の眼に映つたりした。二人の人物は雪太郎の父上である雪五郎と弟の雪二郎である。二人は、終日、水門の両端に相向ひ合つて、水を溜めては堰を切り、流してはまた門を閉ぢて水を溜める仕事に没頭してゐるのである。雪五郎は八十歳に近い年輩であつたが、楽々と斯る労働に堪へ得る程の健康の持主である。私も一度、試みに水門番にたづさはつて見たこともあるが、いざ堰を切る段になつて閂を引き、把手を肩にして満身の力を持つて開門しようとしても、曳哉/\と叫ぶ掛声ばかりが水車の騒ぎよりも壮烈に鳴り渡るばかりで、打たうが叩かうが、それは私にとつては永遠に開かずの扉であつた。加けに私は空力があまつて肩を滑らし、あはやと云ふ間もなく真つさかさまに水中目がけて不慮のダイビングを試み、危うく溺死しかゝつたところを雪五郎に救助された。毎晩/\雪五郎父子と共に囲炉裡のまはりに集つて私も盃を執りあげるのであるが、さま/″\な債権者がおし寄せて来て彼等はもう私達の平身叩頭の詫びも聞き倦きて、明日にもこの古呆けた水車小屋を乗つとらうとする勢ひであつた。
「雨が降りさへすれば、忽ち車は回り出すんでございます。どうぞ、それまでお待ち下さい。今、その俵を持つて行かれては、今夜にでも恵みの雨が降り出して、いざ車が回りはぢめたとしても、それこそ私どもの臼は空つぽのまゝで、杵に打たれて割れてしまふより他に道はございません。」
 雪太郎が、畳に頭をすりつけて涙ながらに詫言を述べると、私たちのまはりに車がゝりの陣立でぐるりと勢ぞろひをしてゐるむくむくとむくれあがつた雷共の中から、中でも獰猛な地主のアービスが腕まくりをしながらすゝみ出たかとおもふと、いきなり物をも云はず拳骨玉を振りあげて雪太郎の頭をぽかりとなぐつた。そして、役者のしぐさよりも役者らしく真に迫つた怖ろしい憎みの見得を切つて、
「え
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