て執りあげてゐた。
 おゝ私は、あの日の妻の姿が、ありありとあら[#「あら」に傍点]目に浮んでゐる――。
「車が回りはぢめさへすれば、明日《あした》にでも迎へに行くんだからそれを楽しみに待つてゐてお呉れよ。」
 私が妻の手を執つて、ねんごろな励ましの言葉をおくると妻は、しつかりと私の手を握つて、
「私のことは決して心配なさらずに、あなたは勉強をつゞけて下さいね。」
 と朗らかな微笑を浮べて出発した。私は凝ツと妻の顔を見あげて、深く点頭きながら胸板をどんと強く叩いた。
「なあよ、お雪坊や、唐松へ行けば、また珍らしい草つぱもあることだらうから奥さんのお手伝ひをしなよ。」
 雪五郎は、私の妻の鞍にぶらさがつてゐる植物採集の胴乱を見て、そんなことを娘に告げた後に、更に道中のこまごまの注意を繰り返した。私の、さつぱりと捗らない創作の仕事にやがて引用される筈の、このあたりの野生植物の蒐集に関して妻は久しい前から標本をつくつてゐた。私は先程マメイドが河原で摘んだ花束を携へてきたことを誌したが、それも同じく常々からの標本作成のための手助けなのである。
 さて、桐渡ガラドウが、今更そんな風に私の方を向いて、先生――などゝ呼びかけても、もう私は金輪際、返事などをするものか。ツンとして私は、野郎の鼻を睨めてゐた。馬耳東風とは正しくこの態であらう。
「ねえ、先生、実は大変耳よりな儲けばなしを持つてやつて来たんですがね、といふのもあなたとあつしとの長年のお友達の誼みで、先生が大変お困りと訊いたので、何とかお力添えをしたいと存じましてな……」
 ガラドウの云ふところによると、私がつい此頃食ふに事欠いて、いよいよ最後の持物となつてゐた祖先の鎧櫃を町の酒屋へ持ち込んでわづかばかりの抵当としたといふことだが、いつかその噂がそれからそれへ伝つて実に私たる者が嘲笑の的になつてゐたところ、幸ひにも「さる[#「さる」に傍点]一人の義侠的人物が出現して」ひとまづ、それをとり戻し、私の返金の出来る日まで――と云ひかけて彼は、
「孫子の代までも待ちませう――」
 と見得を切つて、ふゝとわらつた。私に望み次第の金子を融通仕様といふのである。
「甘い話ぢやありませんか、持ちぐされのボロ宝が生き返つたとは、何と目出度いことぢやありませんか。――そこで、だツ!」
 と彼は、にわかに生真面目な顔に戻ると、胸を引いて、音も見事にポンと手を鳴した。「先生のお望みの金額を、まあ、ものは験しに仰言つて見ては下さいませんか。」
 別人の提言ならば私は有無なく賛成したに違ひなかつたが、一度瞞されたが最後、奴の申出など、何で諾くものか。加けに、奴はアヌビス共を煽動して、この水車小屋の差押へを駆り立てゝゐる張本人の由である。敵だ!
「ねえ、先生、まあ、とつくりと考へて御覧なさいよ。」
「…………」
 木像に向つて演説をしてゐる――と私は思つた。それにしても、若しもこれが別人からの提言であるならば! と私は思はずには居られなかつた。若し左様ならば、先づ水車の負債を片づけて、明日にも妻やお雪を迎へに行くことが出来るではないか、一体、自分の望みの金は何程か、千か、万か――。と、ガラドウは、パツと片手の平を私の眼の先に拡げて、
「こう[#「こう」に傍点]と出ますか?」
 と叫んだ。
「…………」
 私には一向意味が解らなかつた。すると彼は深い決心に似た思ひ入れと共に、
「では斯うとゆくか?」
 と今度は、拡げた手の平に、別の指を二本載せて、凝つと私の顔を視守つた。
「…………」
 私の想ひは、はるか遠く雲となつて唐松の空に漂ひ、ひたすら妻女の上を揺曳してゐた。千鳥川の岸辺でお雪と共々に珍らしい草花を発見した彼女が、この私を、びつくりさせてやらうなどゝ打ち興じてゐる光景が脳裡のスクリンに鮮やかに浮んでゐた。思へば妻に、春の終りの頃に別れたまゝ、世は既に晩秋の蜜柑のさかり時とは化してゐるではないか! おゝ、恋しや、妻よ――と私は沁々として、思はず胸のうちで、鹿の鳴く声きけば吾妹子の夢忍ばるゝ――云々といふ唄のメロデイを切々と伝ふてゐた。
「これでも、未だ――と仰言るんですか、一体御所望のほどはどれくらひ? びつくりさせちや厭ですぜ。」
 ガラドウは、わざとらしく怖る/\と、私の胸の底を見透すが如き甘気なにやりわらひを浮べて、にゆうつと頤を伸した。
 私は、その時、胸の中で吟じてゐる秋の歌の条々たる韻律に自ら惚れ惚れと、夢見るやうに眼眦をかすめて微かに首を揺りうごかせながら、あはや妙境にさ迷ひ込まうとしてゐた己れに、吾ながら気づかなかつたのであるが、その私の様子を眺めたガラドウは、こいつはてつきり私が、思はぬ儲けばなしに有頂天となり、今やふら/\と金算段にうつゝを抜かせてゐるに違ひない、こつちの思ふ壺に入つたぞ―
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