びあげた。「夜露の情けは、もう、待たずとも――」
「この腕の続くかぎり――」
 雪五郎が、そろつて、朝靄の底から窓を目がけて赤松のやうな腕を突き伸した。そして、
「祭りは上天気ですぞ。」
 と目醒し気に唸りながら、川べりをのしのしと柳の影へ消えた。流れは、流れのさまをたゞよはすことのない静けさで、はつきりと白く川下へ見霞む果までうねつてゐた。浮ぶものゝ影があるならば花の一輪であらうとも、眼にとまる澄明さであるが、私の眼をさへぎる水馬《あめんぼう》の影さへ見へぬ眺めであつた。
 はつきりと、もう明け放れて陽《ひかり》の金色の箭が山の頂きを滑つて、模型と化してゐる水車の翼に戯れながら、川岸の草々の露を吸ひとつてゐた。私は、もう、この川岸の草花の名前は、あますところなく知り尽してしまつてゐた。おみなへし、へらしだ、われもかう、烏萩、こうや万年草、いちはつ、狐の行灯、烏瓜、ぶらぶら提灯花、孔雀歯朶、盗棒萩、犬虱、しほん、獅子舞ひ蓮華、猫柳……等々と、一見見渡したゞけで忽ち百種類も数へあげることが出来るのである。それ故私は、川上から流れて来るものの中にも若しや私の知らぬ花がなからうか? と、噂に聞くだけで未だに訪れた験しもない千鳥川の流域を思つて、何かと水の上に注意の眼をとゞめるのが習慣になつてゐた。妻が彼地に赴いてからは、その注意の眼に加へて恋々の想ひを含めて、若しや笹舟に載せられた花言葉でもが流れて来ぬものか――とさへ、屡々考へて、流れのさまを見守ることも、私にとつてはさして無稽でも感傷でもなかつた。何故なら、唐松村は山径を伝へば、わづか五里あまりの道程であるが、郵便と云へば一週間に一度の配達より他は享けぬといふ幽邃境であつたから、私達は別れるときに、それは戯談めかしくわらひながらではあつたが、
「いつそ、流れに托して、花の目印でもつけた壜なりと流した方が、早急の言伝は、いちはやく着くかも知れないぜ。」
「ほんとうに――若しや、あなたの知らぬ名前の草花が流れて来たら、標本のあまりをあたし達が流したものと思つてよ。手紙をつけて流すかも知れないよ。金送れ――とでも書いて――」
 そんな言葉をとり交したこともあつた。験しに雪五郎に、その時私達が、一体千鳥川で流したものが幾時間位ひ経つたら、吹雪に達するだらうか? などゝいふことを質問して見ると、彼は入念に首を傾けた後に、
「雨の
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