ない今日此頃の水勢ならば、丁度黄昏時に出発した花舟は、明方になつて此処に着くであらう。」
 と云ひ、彼の壮年時代には、真実この流れを唐松村の人々は郵便網として使用してゐたが、そして水門の傍らに四つ手網型の郵便受を備へて置いたものであるが、――などゝいふことを附け加へた。
 Styx――三途川と振り仮名するのは、稍私の意に添はぬが、今、私の眼下から白々と晴れ渡つて、壮麗な大気の静寂を縫つて無限の面持で流れをも忘れたかのやうな吹雪川は、降れば雲に達するかと見ゆるばかりの、もの静かなる漠々たる明朗さに一切の疑惑と妄迷を呑み込んだ The Lethe(もの忘れ河)となつて、曙の雲の裾に消えてゐた。私は、あの騒ぎの幻の後に展けたこの Stygian River の往く幽明境《フアテイア》を、太鼓を打ち鳴らしながらたどらうとするかのやうな己れを見て、あはれとも悦びともつかぬ決して云ひようのない不思議な陶酔を覚へてゐた。――と、その雲を衝いて、一散に駆けて来る娘の姿が、積乱雲の中に現れた一点の鳥と見へた。
「先生――先生――」
 見ると居酒屋のマメイドである。珍らしい草花でも発見したことを告げに来たのであらう――と私は思つたから、私は一切の痴夢から醒めて、慌てゝ戸外に走り出ると、メイ子は私の腕の中にぐつたりとして打ち倒れた。私は雪二郎を呼んで、メイ子に水と気つけ薬を服せしめた。
「ガラドウが来る、ガラドウが……」
「メイちやん、もう大丈夫だ。ガラドウの奴来て見やがれ、忘れ河の中へ……」
 私達の介抱に依つて息を吹き返したメイの話を聞いて見ると(私は、ガラドウがメイを手込めにしようと襲ひかゝつたに相違ないと思つたのであつたが。)ガラドウが今にも私の許へ鎧櫃を瞞しとる目的で、一世一代の智謀をふるつた(と彼が云つた由。)狐となつてやつて来る筈だから決して化されてはならぬといふ注進であつた。
 今年の春の祭の時に余興として鎧武者の戦争劇を演じたところ、楽屋から火を発して村中にある二十体の鎧兜を悉く烏有に帰せしめ、今では質屋に遺つた私のそれが唯一のものとなつてゐる。祭りの武者用には古来から此処に伝はる鎧でなければならなかつたので、結局私のそれが登用されることになつたのであるが、昨夜から徹宵の村議の結果、誰人でも真ツ先にそれ[#「それ」に傍点]を私の所有から奪ひとつた者が、この先何年間といふ
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