らゆる物音は澄明な月の光りに吸ひとられてしまつたやうに絶へ入つて、見渡す限りはるばるとした平原の彼方に三つ四つ点々と瞬いてゐる村里の灯火《ともしび》の中に、やがて彼等の羽ばたきは消へ込んでしまつた。そして、あたりは再び動くものゝ影だに見へぬ渺々とした青海原であつた。――水車小屋は村里を遠く離れた鎮守の森の山裾に蟠まる草葺屋根の一軒家である。
それからといふもの私は彼等の復讐戦を期待して、不断の身構へを忘れなかつたが、
「いゝえ、さう[#「さう」に傍点]なればさう[#「さう」に傍点]なるで、寧ろ此方は平気でありますわ。」
と雪五郎達は云つた。雪五郎は齢こそとつてはゐるが、その腕力は近郷の音に聞えた豪のものであるから、いざとなれば、ガラドウやアヌビス位ひ八人であらうが十人であらうが、ぽんぽんと手玉にとつて水雑炊を喰はせてやる――。
「此処に斯うして坐つたまゝで、ぽうんと窓から河の中へ飛び込ませてやりますよ、ほんの朝飯前に――」
と事もなげに呟いた。凡そ雪五郎は謙虚な心の持主で、かつて自慢気なことを口にした験しはなかつたが、この時ばかりは稍荒々しい息づかひで、太い腕を私に示した。奴等があのやうに慌てふためいて遁走したのは私の背後に立ちあがつた低気圧をはらんだ三人の阿修羅を見てのことであつたのだらう。あの重い水門を、あのやうに難なく上げ降しすることの出来る人物は雪五郎父子をおいて何処の村にも続く者はない由である。第一流の水門番として鳴り響いてゐる。永年の間あの水門の把手を担ぎ慣れてゐる彼等の肩には、恰度握り拳《こぶし》大の力瘤がむつくりと盛りあがつてゐるではないか! あの事件では彼等も余程亢奮したと見へ、また更に私に落着きを与へようとして、まあ試しにこれをつかんで御覧なされ、力一杯握り潰すつもりで――。
「これは切られても痛くはないんです。」
さう云ひながら三人が交々片肌抜ぎになつて、覚悟を決めて、奴等の幻を追ふように力んだので――先づ私は、雪二郎の力瘤をつかんでみると、それは恰も皮下に一個の林檎を蔵してゐるが如くグリグリと蠢く態《さま》は、魔力の潜みと思はれた。
「抓りあげて御覧なさい。」
雪二郎にすゝめられた私は、歯ぎしりをして拗らうとかゝつたが、忽ち指先が痺れてポロリとしてしまつた。
次に雪太郎の番になると、これはまた何と驚いたことには正銘の堅ボールで、抓
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