場で息を引きとつても、さらさら心残りは覚えぬといふ位ひ、事ほど左様に僕はこの天気が愉快なんだよ。」
 そんなに愉快なのなら、昼寝なんかしてゐないでも好さゝうなものなのに――と聴く者の耳を疑はしめたほど、急に私は浮々として、おしやべりを続けながら猶予なく舟のなかへ飛び込むと、段々になつて積みあげてある米俵の頂上に馬乗りとなり、額に手を翳して、四方の景色を見渡しながら、
「もう春だな……」
 などゝ唸つた。
 その河畔の丘の上に私の部屋の窓がのぞいてゐたので、私達は何時もその窓枠に並んで手風琴を弾きながら、下を通ふ田舟と呼応した。
 ――だが私の妻君が、ひとまづ先へ都へ登つてしまつてからは、手風琴の蛇腹に風穴でもがあいたかのやうに、私は力が抜けて、そゞろに白々しく瑟々たる風に襲はれてゐた。
 だから、私は稍ともすれば河畔に降りて、友達が通りかゝるのを待ち伏せてゐるのであつた。中には私のさしまねく姿を見ると、艫おしの腕を急に速めて、せつせつと行き過ぎてしまふ舟もあつた。無理もないのだ。何故なら、うつかり私の甘言にさそはれて錨を降さうものなら、大事な弁当を分捕られてしまふおそれがあつたから――
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