トなのだ。彼が、トランクの底からこれを見つけ出した時、娘から父に与へた手紙がポケットの隅にあつた。手紙の内容は、大したものではなくたしかピクニックへ誘つたものだつた。そんなものなので父もうつかりして棄て損つたのだらう。――父の写真帳に、このコートを着た妹と父のがあつた。友人の娘だ――などゝ父が母に説明したことを、彼は覚えてゐた。……彼が着て見ると、和服の丈と殆ど同じだつた。……秘密、秘密……さう思つて彼は怖ろしかつたが、苦し紛れにそつと東京に持ち帰つた。その晩は独りの部屋で、それを来て鏡に写したり、にやにや笑つたり、通俗小説みたいな想ひに耽つたり、心から涙ぐましい気持になつたりした。――それから膝骨の下あたりに見当をつけ、裾を五六寸鉄でヂョキヂョキと切り落した。翌日服屋へ抱へ込んで、ミシンを懸けさせ、帰りにはもうちやんと着込んで、如何にも自分のものらしい顔付きで、たしかそのまゝ友達を訪問した。三月の末頃だつたか? 何処も冬仕度でその友達とはストーブを囲んで話したが、何んでも相手が眼を円くして、
「いよう! 馬鹿に気が早いね、スプリングコートはしやれてるね。」と云つたから、多分早春の宵だ
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