間は、断じて帰らない。顔を見るのも嫌だ。」などと父が彼を罵つたといふことを聞いたり……そんなわけで這々《はう/\》の態で彼は、春以来熱海へ逃げ延びたのだ。彼だけは、一度も小田原へ帰らなかつた。だがいろ/\な風聞が伝はつた。彼が居なくなつてからは割合に多く父が帰宅するとか、帰れば必ず一度は激しい夫婦争ひをするとか――。
「どつちもどつちで、滑稽な憐むべき人物だ。」
彼は、両親をそんな風に断定して、愚かな観察を享楽するのだつた。本を読むでもなし、また小説なんて書く気持は毛頭起らなかつた。それにしても此方へ来て以来の退屈さ加減は夥しかつた。温泉に浸つたつて逆上《のぼ》せるばかしだし、風景を見て慰められる質でもなし、散歩は嫌ひだし、また独り芸術的な思索に耽るなんていふ落つきは生れつき持ち合はせなかつたし、まつたく彼は、日々その身を持てあますばかしだ。実家に居てあの[#「あの」に傍点]苦しみに忍ぶことゝ、此方でこの退屈と戦ふことゝ、どつちが苦しいか比べて見れば、あつちの方は相手が人間であるだけ兎も角賑やかで面白かつた位にさへ、思はれるのだつた。
「でも妾は、お母さんと一処に暮すことも御免だわ。
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