私と亭主が憂愁に富んだ顔を見合せてゐるのも気づかなかつた。八郎は、プラグマテイストをもつて自らを任じてゐる洋画家である。彼は、あらゆる夢や粉飾を退けて、一元的唯物論の立場から諸々の自然現象を洞察しようとする堅い意志を持つた理論家であつた。私達は悉く、あの崖の中腹の家に起伏して、夫々の創作の道に余念のない芸術家であつたが、七郎と八郎だけが堅く反対の意見を奉ずる異様な熱情家であつて、今では互ひに悪罵をもつて感投詞を投げ合ふ以外には断じて通常の会話は交へぬ程の敵味方となり変つてゐた。事毎に二人は夫々の意見を異にして、絶え間もなく相争ふ有様は恰も古代の火論家水論家が剣の間に舌端の火花を飛せて各自の主張を完うしようとした趣きを髣髴させる概があつた。
たゞ議論として傍聴しようではないか――と叫んで、私達は屡々、あはや格闘にも及びかねまじき彼等の争ひを仲裁するのであつたが、彼等にして見ると、決してそんな議論などといふ生優しい予猶もなく、性格上の根底から相憎み合つてゐる上からは、今や最後の腕力に訴へて捻ぢ倒してしまはなければ医えぬ憤満に満ち溢れてゐるといふのである。
「吾々は歴史的に闘ひつゞけてゐる
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