の憤りの影も射さぬのが、寧ろ不可解であつた。おそらく私が恵まれた凡ゆる罵りや憤懣の修辞句は悉く「ゾイラス」一篇の中に注ぎ尽してしまつたゝめの、結果であらう――と想像された。
更に間もなく七郎が亦、決行した遁走のいきさつに関しては私は、最早記述する興味も覚えぬのである。
私は、多くの「罵しる人」達=債権者達に包囲されて、籠の中の木兎と化してゐた。私はそれらの人々の罵倒の語彙の中に新奇なる修辞句はなからうか? と秘かに吟味したが、単に私が稀代の不道徳漢であることを形容して、恰度私が九郎を罵つたと同じやうに、「何とも言語同断な酷い奴」であり「盗棒よりも図々しい輩」であり「口を利くのも御免だ」と、誰も彼もが同じやうなことを喚いて絶交の宣言を繰り返した。その中には嘗ては私と共々に生涯の親交を誓つて高く盃を挙げ合つた銀行家が居た。私の人格を信じて生涯の道伴れを約した地主が居た。牧場主が居た。私に収入のあつた場合にその五分の一を納入するのみで、吾家の食堂に酒樽を備へつゞけるであらうと主張した酒造家が居た。七郎や八郎が酒場の亭主に弁解した如く私も亦彼等に対して「九郎が帰つたならば――」といふことを
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