草を積んで村境いの橋を渡って行く馬車は、経川の「木兎」を買収した牧場主の若者だ。
「彼奴に悟られては面倒だぞ!」
私は呟いて帽子の庇《ひさし》を深くした。私は、その「木兎」を単に観賞の理由で彼から借り受けて置いたところが、同居のRという文科大学生が秘《ひそ》かに持出して街のカフエーに遊興費の代償に差押えられている。彼は私を見出し次第責任を問うて私の胸倉を執るに相違ないのだ。公孫樹《いちょう》のある地主の家では井戸換えの模様らしく、一団の人々が庭先に集って眩《まぶ》しく立働いているさまが見える。この一団に気づかれたら、矢っ張り私は追跡されるであろう、なぜなら地主の家で買収した経川の「※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]」を、私は森の拳銃《ピストル》使いの手先きとなって盗み出したことがある。「※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]」の行方に関してはその後私は知らなかったが、地主の一党は私に依ってそれの緒口をつかもうとして私の在所《ありか》を隈《くま》なく諸方に索《もと》めているそうだ。――また遥か左手の社の門前にある居酒屋の方へ眼を転じると、亭主が往来の人をとらえて何か頻《しき》りと激した身振りで憤激の煙を挙げているらしい。彼は実に気短かな男で、経川と私が少しばかりの酒代の負債が出来たところが、いつかその支払命令に山を越えてアトリエにやって来た時丁度経川の労作の「マキノ氏像」が完成して二人でそれを眺めていると、
「馬鹿にしている、こんなものをつくりあがって!」と私達を罵り、思わず癇癪の拳を振りあげてこのブロンズ像の頭を擲《なぐ》りつけて、突き指の災《やく》に遇《あ》い、久しい間|吊《つ》り腕《うで》をしていたことがある。今日も人をとらえて私達の無責任を吹聴《ふいちょう》しているのだろう。
――「おやッ井戸換えの連中がこっちを見上げて何か囁き合っているぞ!」
私はギョッとして、慌てて顔を反対の山の方へ背《そむ》けた。漸く、あの森が、丘の下に沼のように見えるあたりまで来ていた。幽婉縹渺《ゆうえんひょうびょう》として底知れぬ観である――不図耳を澄ますと、森の底から時折銃声が聞えた。二三発続け打ちにして、稍々暫く経《た》つと、また鳴る。
私は更に不気味に胸を打たれた。あの団長の喫煙ではないかしら? と思われたからである。理由《わけ》を知らぬ村人は猟師の鉄砲の音と思っているが、私は知っている――あの団長はかような好天気の日には却って身を持ち扱って、無闇《むやみ》に煙草を喫す習慣である、そんな時には彼は非常に神経質な喫煙家になって、一発で点火しないと、わけもない亢奮に腕が震えて不思議な苛立ちに駆られるのであった。彼は、一発の下に点火しない煙草は、不吉と称して悉く踏みにじってしまうのである。彼は、それでその日の運命を自ら占うのだという御幣をかついでいる。だから最初の一発がうまく点火すると彼は非常な好機嫌《こうきげん》となるが、手もとが狂いはじめたとなると制限がなくなる。ガミガミと途方もなく苛立って続けざまに発砲するのだが、癇癪を起せば起すほど腕が震えて埒があかず、終いには人畜を害《そこ》ねなければ溜飲が下らなくなってしまうという始末の悪い迷信的潔癖性に富んでいた。
未だそれ[#「それ」に傍点]と判明したわけではなかったが、なおも頻りに鳴りつづけている「ライタアの音」に注意を向けると私は脚がすくみそうになった。余裕さえあればここで私は、彼の発火管が種切れになっていつものように彼がふて[#「ふて」に傍点]寝をしてしまうであろう頃合を待って、森に踏み入るのであったが、容易に発砲の音は絶えなかった。この上ここらでまごまごしていれば村の連中に捕縛される恐れがあるばかりでなく、最も怖ろしい夕暮に迫られる危険がある。――彼は人畜に重傷を負わせる程|獰猛《どうもう》ではないが、奇妙な狙いをもって、その身近くの空気を打って、逃げまどう標的の狼狽する有様を見物するのが道楽である。おそらく私を見出したならば彼は会心の微笑を洩らして最も残酷な嬲《なぶ》り打ちを浴せ、跳ねては転びしながら逃げ回るであろう私達の悲惨な姿を現出させて鬱屈を晴らすに違いない。この臆病な驢馬を御《ぎょ》し、この稀大な重荷を背負って私は、あのライタアの火蓋に身を飜す光景を想像すると、もう額からは冷いあぶら汗が滲《にじ》み出した。地獄の業火に焼かるる責苦に相違なかった。私の脚には忽《たちま》ち重い鎖がつながれてしまった。私は擂鉢のふちでどちらを向いても真に進退ここに谷《きわ》まったの感であった。私は、然し、勇を鼓して、もう一度緩やかに、おしめども今日をかぎりの――と歌って、馬を追いやろうとしたが、徒《いたず》らに口腔《くち》ばかりが歌のかたちに開閉するばかりで決してそれに音声が伴わないではないか。
その時であった、ゼーロンが再び頑強な驢馬に化して立ちすくんでしまったのは――。ワーッ! と私は、絶体絶命の悲鳴を挙げて、夢中でゼーロンの尻《しり》っぺたを力まかせに擲りつけた。
と彼は、面白そうにピョンピョンと跳ねて、ものの十間ばかり先へ行って、再び木馬になっている。まるで私を嘲弄《ちょうろう》しているみたいな恰好《かっこう》で、ぼんやりこっちを振り返ったりしているのだ。
「これだな!」
と私は唸った。「水車小屋の主が、彼奴は打たなければ歩かぬ驢馬となった! と嘆いたのは――」
私は追いすがると同時に、鞭を棄てて来たのを後悔しながら、右腕を棍棒《こんぼう》に擬して力一杯のスウィングを浴せた。
「そうだ、その意気だよ、もっと力を込めてやって御覧!」
ゼーロンはそんな調子で、躍《おど》り出すと、行手の松の木の傍まで進んで、また振り返っている。丁度、加えられた痛痒《つうよう》が消え去ると同時に立ち止まるという風であった。――私は、こんな聞き分けを忘れた畜生に、以前の親愛を持って、追憶の歌を鞭にしていたことなどを思い出すと無性に肚《はら》が立って、
「馬鹿!」
と叫びながら、再び追いつくと、私はもう息も絶え絶えの姿であったが、阿修羅《あしゅら》になって、左右の腕でところ構わず張りたおした。
ゼーロンの蹄は、浮かれたように石ころを蹴って、また少しの先まで進んだ。
「地獄の驢馬奴!」
私は罵った。もう両腕は全然感覚を失って、肩からぶら下がっている鉛筆のようにきかなくなっていた。私は地に這《は》って、憎いゼーロンに追いつこうとした、余りの憤激でもう足腰が立たなかったから――。すると、その時、猪鼻村の方角から、にわかにけたたましい半鐘の音が捲き起った。
「やあ! 奴等はとうとう俺の姿を発見して、動員の鐘を打ちはじめたぞ!」
半鐘の音は物凄い唸りをひいて山々に反響し、擂鉢の底にとぐろを巻きながら、虚空に向って濛々《もうもう》と訴えている。――私は、眼を閉じて、ふるえる掌に石をつかんだ。私は、唇を噛み、
「このゴリアテの馬奴!」
と怒号すると同時に、哀れな右腕を風車のように回転して、コントロールをつけると、ダビデがガテのゴリアテを殺した投石具《スリング》もどきの勢いで、はっしと、ゼーロンを目がけて投げつけた石は、この必死の一投のねらい違《たが》わず、ゼーロンの臀部《でんぶ》に、目醒しいデッドボールとなった。
ゼーロンは後脚で空気を蹴って飛び出した。続け打ちにして、駆け抜けてしまわなければならない。私は重荷に圧《お》しつぶされそうにパクパクと四ツん這いになったまま、全速力で追い縋ると、もう次第に脚竝みをゆるめはじめたゼーロンの頤の下にくぐり抜けていきなり、えいッ! という掛け声と一緒に、飛鳥の早業《はやわざ》で跳ねあがるや、昔、大力サムソンが驢馬の顎骨を引き抜いた要領に端を発する模範的アッパー・カットの一撃を喰わした。惜しい哉、それは、ゼーロンが首を半鐘の方に振り向けた瞬間で、私の拳は空《むな》しく空を突きあげてしまった。余勢を喰って、私はあざみの花の中にもんどりを打った。然しひるまず私は息もつかずに跳《と》びあがると、昔、シャムガルが牛を殺した直突の腕を、ゼーロンの脇腹目がけて突きとおした。ゼーロンは、歯をむき出していななくと、ハードルを跳び超すみたいな駆け方でピョンピョンと波型に飛び出した。私は地をすって行く手綱を拾うと同時に、二三間の距離を曳きずられながら走った後に綺麗に鞍の上に飛び乗った。そして、突撃の陣太鼓のように乱脈にその腹を蹴り、鬣に武者振りついて、進め、進め……と連呼した。
漸くゼーロンも必死となった如く、更に高《ハイ》ハードルを跳び越える通りな恰好で、弓なりに擂り鉢のふちを駆け続けて、いよいよ降り坂の出口にさしかかった。――振り返ってみると村の半鐘は出火の合図だったのである。地主の納屋《なや》のあたりに火の手があがって、旗を先頭におしたてた諸方の消防隊が手おしポンプを曳いて、八方から寄り集ろうとしている最中だった。ラッパが鳴る。喚き声が聞えて来る。折悪《おりあし》く井戸換の最中だったので、水が使えないので、火消隊の面々は非常に狼狽して、畦道《あぜみち》の小川までホースを伸ばそうとしているらしい。一隊の所有するホースでは長さが不足して、小頭らしい一員が火の見の梯子を昇って行くと、帽子を振りながら遠方の一隊に向って、
「ホース……ホース……」と叫んでいるのが聞えた。火の手は納屋から母屋《おもや》に攻め寄せたらしく、煙が暫《しば》し空に絶えたかと思うと、間もなく真白になって軒の間からむくむくとふき出した。
「ホース……ホース……ゼーロン……」
梯子の男の声が不図そう私に聞えた。見るともう、ホースは畦道の小川まで伸びて、それに綱引きのように人がたかっている。そして間もなく細い水煙が軒先を目がけて、ほとばしっていた。ポンプをあおる決死の隊員の掛声が響いて来た。
「俺に応援に来いとでも云うのかしら?」
……「おうい、ゼーロンの乗手……こっちを向いてくれ、頼みがあるぞ!」
と聞えた。私は、鬣の中に顔を伏せながら薄眼で、そっちを覗いた。――よくよく見ると、梯子の男は、森の、あの喫煙家だった。巧みに消防隊の一員に身を窶《やつ》している。そして、彼は半鐘打ちに代って、鐘を叩いているが、人々は消防に熱中しているので、その鐘の打ち方が、彼が輩下の者と連絡をとるための暗号法に依っているのに気づこうともしない。
鐘の合間を見ては彼は、頻りと腕を振って私を呼んでいる。また、電報式に叩く鐘の暗号法を判断すると、それは私に、好くお前は帰って来たな、俺はこの頃大変寂しく暮しているから、これを機会にしてもう一遍仲間になってくれ、先ず今日の獲物を山分けにしようぜ――と通信しているのであった。
「鎧《よろい》をとり戻したぞ」と彼は告げた。それはある負債の代償に私が地主の家に預けた私の祖先の遺物である。私の老母は、私がかようなものまで飲酒のために他人手《ひとで》に渡したことを知って、私に切腹を迫っている。私が若しこの宝物を取り戻して帰宅したならば、永年の勘当を許すという書を寄せている。半鐘は更に、
「空腹を抱《かか》えて詩をつくる愚を止めよ。」
と促した。
私は、あの緋縅《ひおどし》の鎧を着て生家に凱旋《がいせん》する様の誘惑にも駆られたが、あの、ぎょろりと丸く視張ってはいるものの凡そどこにも見当のつかぬというような間抜けな風情の眼と、唇を心持ち筒型にして苦《にが》さを見せた趣が、却って観《み》る者の胸に滑稽感を誘うかのような、大きな鹿爪《しかつめ》らしい武悪面に違いない私の父の肖像画の懸《かか》っている、あの薄暗い書斎に帰って、呪われた坐禅を組むことを思うと暗澹とした。父親の姿に接する時程私は陰気な虚無感に誘われる時はない。私は屡々その肖像画を破棄しようと謀《はか》って、未だに果し得ないのであるが、やがては屹度《きっと》決行するつもりでいる。――詩は、饑餓に面した明朗な野からより他に私には生れぬ。
「お前の、その背中の重荷の売却法を教えてやろうよ。」
と半鐘は信号した。
「そ
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