ゼーロン
牧野信一
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)能《あた》わぬ
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(例)結局|龍巻《たつまき》村の
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(例)※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]
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更に私は新しい原始生活に向うために、一切の書籍、家具、負債その他の整理を終ったが、最後に、売却することの能《あた》わぬ一個のブロンズ製の胸像の始末に迷った。――諸君は、二年程前の秋の日本美術院展覧会で、同人経川槇雄作の木彫「※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]」「牛」「木兎《みみずく》」等の作品と竝んで「マキノ氏像」なるブロンズの等身胸像を観覧なされたであろう。名品として識者の好評を博した逸作である。
いろいろと私はその始末に就《つ》いて思案したが、結局|龍巻《たつまき》村の藤屋氏の許《もと》に運んで保存を乞《こ》うより他は道はなかった。兼々《かねがね》藤屋氏は経川の労作「マキノ氏像」のために記念の宴を張りたい意向を持っていたが、私の転々生活と共にその作品も持回わられていたので、そのままになっていたところであるから私の決心ひとつで折好《おりよ》き機会にもなるのであった。
私は特別に頑丈な大型の登山袋にそれを収めて、太い杖を突き、一振りの山刀をたばさんで出発した。新しく計画した生活上のプロットが既に目睫《もくしょう》に迫っている折からだったので、この行程は最も速《すみ》やかに処置して来なければならなかった。で私は、早朝に新宿を起点とする急行電車に性急な登山姿の身を投じ、終点の四駅程手前の柏《かしわ》駅で降りると息をつく間もなく道を北方に約一里|溯《さかのぼ》った塚田村に駆け登って、予定の如く知合いの水車小屋から馬車挽き馬のゼーロンを借り出さなければならなかった。近道のみを選んでも徒歩では日没までに行き着くことが困難であるばかりでなく、途中の様々な難所は私の信頼するゼーロンの勇気を借りなければ、余りに大胆過ぎる行程だったからである。
この電車のこのあたりの沿線から、或いは熱海《あたみ》線の小田原駅に下車した人々が、首《こうべ》を回《めぐ》らせて眼を西北方の空に挙《あ》げるならば人々は、恰《あたか》も箱根連山と足柄連山の境界線にあたる明神ヶ岳の山裾と道了の森の背後に位して、むっくりと頭を持ちあげている達磨《だるま》の姿に似た飄然《ひょうぜん》たる峰を見出すであろう。ヤグラ嶽と呼ばれて、海抜|凡《およ》そ三千尺、そして海岸迄の距離が凡そ十里にあまり、山中の一角からは、現在帆立貝や真帆貝の化石が産出するというので一部の地質学者や考古学徒から多少の興味を持って観察され、また末枯《うらがれ》の季節になると麓《ふもと》の村々を襲って屡々《しばしば》民家に危害を加える狼や狐やまたは猪の隠れ家なりとして、近在の人民にはこよなく怖れられ、冒険好きの狩猟家には憧れの眼《まなこ》をもって眺められているところのブロッケンである。
私の尊敬する先輩の藤屋八郎氏は、ギリシャ古典から欧洲中世紀騎士道文学までの、最も隠れたる研究家でその住居を自らピエル・フォンと称《よ》んでいる。その山峡の森蔭にある屋敷内には、幾棟かの極《きわ》めて簡素な丸木小屋が点在していて、それ等にはそれぞれ「シャルルマーニュの体操場」「ラ・マンチアの図書室」「|P・R・B《プレ・ラファエレ・ブラザフッド》のアトリエ」「イデアの楯」「円卓の館《やかた》」その他の名称の下に、芸術の道に精進する最も貧しい友達のために寄宿舎として与えられることになっていた。私は久しい間「イデアの楯」の食客となって藤屋氏の訓育をうけたストア派の吟遊作家であり、この胸像はその間に同じく「P・R・B」の彫刻家である経川が二年もの間私をモデルにして作ったのである。私が経川のモデルになると決った時には、近隣の村民達は悉《ことごと》く貧しい経川のために癇癪《かんしゃく》の舌打ちをしてなぜもっと別様の「馬」とか「牛」とか、さようなものを題材に選ばぬのだろうと、その無口な彫刻家のために同情を惜まなかった。なぜならば経川のかような作品ならば、即座に莫大な価格をもって売約を申込む希望者が群がっていたからである。人物を選むならば、なぜ村長や地主をモデルにしなかったのだろう。村長の像ならば村費をもって記念像を作る議が可決されているし、地主ならば彼自らが自らの人徳を後世の村民に遺《のこ》すための象《しるし》として、費用を惜まず己《おの》れの像を建設して置きたい望みを洩らしている。またこの地に縁故の深い坂田金時や二宮金次郎の像ならば、神社や学校で恭々《うやうや》しく買上げる手筈になっているではないか! それをまあ、選《よ》りにも選って!――と私は、その時芸術家の感興を弁《わきま》えぬ村人達から、最も不名誉な形容詞を浴せられたことであった。
「あんな!」と彼等は途上で私に出遇《であ》うと、おとなしい私に恰も憎むべき罪があるかのように軽蔑の後ろ指をさして、
「あんな碌《ろく》でなしの、馬鹿野郎の像をつくるなんて!」
さような非難の声が益々高くなって、終《つ》いには私達が仕事中のアトリエの窓に向って石を投げつける者(それは経川の債権者達であった)さえ現れるに至ったので私は、像の命題を単に「男の像」とか、乃至《ないし》は幾分のセンセイショナルな意味で「阿呆の首」とか「或る詩人」とでも変えたならばこの難を免れ得るであろうと経川に計ったのであるが、出品の時になると彼は私にも無断で矢張り「マキノ氏像」経川槇雄作と彫りつけたのである。そして彼は私の手を執《と》って、会心の作を得たことを悦《よろこ》び、私達のピエル・フォン生活の記念として私に贈った。その頃私は自身の影にのみおびやかされて主に自らを嘲《あざけ》る歌をつくっていた頃であった。両び回想したくない自分の姿であった。この像に「詩人の像」或いは「男の顔」とでもいう題が附せられて、経川の作品の擁護者の手に渡ったならば私は幸いだったのだ。然《しか》し藤屋氏は、若《も》しも私が今後の生活上でこの像の処置に迷った場合には、経川の自信を傷《きずつ》けることなしにいつでも引きとることを私に約した人であった。
藤屋氏のピエル・フォンは、道了と猿山の森を分つ鋸型《のこぎりがた》の谿谷《けいこく》に従って径《みち》を見出し、登ること三里、ヤグラ嶽の麓に蹲《うずくま》る針葉樹の密林に囲まれた山峡の龍巻と称ばるる、五十戸から成る小部落で、幽邃《ゆうすい》な鬼涙沼《きなだぬま》のほとりに封建の夢を遺している。神奈川県足柄上郡に属し、柏駅から九里の全程である。
私が今日の目的に就いて水車小屋の主《あるじ》に語った後に、杖を棄《す》て、ゼーロンを曳《ひ》き出そうとすると彼は、その杖を鞭《むち》にする要があるだろう――
「こいつ飛んでもない驢馬《ろば》になってしまったんで……」と厭世《えんせい》的な面持を浮べた。そして、彼は私がかような重荷を持って苦労しなければならない今日の行程を心底から同情し、それが若し「牛」か「※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]」であったならば今ここででも即座に売却して久し振りに愉快な盃《さかずき》を挙げることも出来るのだが「マキノ氏像」ではどうすることも出来ない、早く片づけて来給え、それから帰りには近頃経川が「馬」の小品をつくったそうだから、そいつを土産《みやげ》に貰《もら》って来て呉れ、質にでも預けて飲もうではないか! などと云いながら、私に新しい寒竹の鞭を借そうとした。
「ゼーロン!」
私は、鞭など怖ろしいもののように目も呉れずに愛馬の首に取縋《とりすが》った。「お前に鞭が必要だなんてどうして信じられよう。お前を打つくらいならば、僕は自分が打たれた方がましだよ。」
主の言葉に依《よ》ると、ゼーロンの最も寛大な愛撫者《あいぶしゃ》であった私が村住いを棄てて都へ去ってから間もなく、この栗毛《くりげ》の牡馬《おすうま》は図太い驢馬の性質に変り、打たなければ決して歩まぬ木馬の振りをしたり、殊更《ことさら》に跛《びっこ》を引いたりするような愚物になってしまった、実に不可解な出来事である、今日図らずも私を見出して再び以前のゼーロンに立ち返りでもしたら幸いであるが! との事であった。
「立ち返るとも立ち返るとも、僕のゼーロンだもの。」
私は寧《むし》ろ得意と、計り知れない親密さを抱いて揚々と手綱を執った。
「一日でも彼奴の姿を見ずに済むかと思えば却《かえ》って幸せだ。」
主は私の背後からゼーロンを罵《ののし》った。私は、私の比《たぐ》いなきペットの耳を両手で覆《おお》わずには居られなかった。――ゼーロンの蹄の音は私の帰来を悦んでいるが如くに朗らかに鳴った。私の背中では、薄ら重い荷がそれにつれて快く踊っていた。ゼーロンのお蔭で私は、苦もなく龍巻村へ行き着けるであろうと悦んだ。――これまで水車小屋の主は、経川の作品を売却する使いを再参自ら申出て、街《まち》へ赴《おもむ》くとそれを抵当にしてあっちこっちの茶屋や酒場で遊蕩《ゆうとう》に耽《ふけ》っては、経川に面目を潰《つぶ》すのが例だったが、相変らずさようなことに身を持ち崩《くず》していると見える。今日も私が、経川の作品を持参したというと、小踊りしながら袋の中を覗《のぞ》き込んだが、期待に外《はず》れて非常に落胆した。
「お前の主が経川の作品を携えて街へ行く時には、お前はいつでも木馬になってやるが好い、跛を引いて振り落としてやっても構わないさ。」
私は小気味好さを覚えながらゼーロンに向ってそんな耳打ちをした。
ところが僅《わず》か二里ばかりの堤を溯った頃になると、ゼーロンの跛は次第に露骨の度を増して稍々《やや》ともすると危く私に私の舌を噛ませようとしたり、転落を怖れる私をその鬣《たてがみ》に獅噛《しが》みつかせたりするというような怖ろしい状態になって来た。そして道端の青草を見出すと、乗手の存在も忘れて草を喰《は》み、どんなに私が苛立《いらだ》っても素知らぬ風を示すに至った。
私は、訝《いぶか》しく首を傾け悲しみに溢《あふ》れた喉を振り搾《しぼ》って、
「ゼーロン!」と叫んだ。「お前は僕を忘れたのか。一年前の春……河畔の猫柳の芽がふくらみ、あの村境いの――」
私は一羽の鳶が螺旋を描きながら舞いあがっている遥《はる》かの鎮守の森の傍《かたわ》らに眺められる黒い門の家を指差して、同じ方角にゼーロンの首を持ちあげて、
「強欲者《ごうよくもの》の屋敷では桃の花が盛りであった頃に、お前に送られて都に登ったピエル・フォンの吟遊詩人《ジャグラア》だよ。」と顔と顔とを改めて突き合せながら唸《うな》ったが、私の腕の力がゆるむと同時に直《す》ぐ項垂《うなだ》れて草を喰み続けるだけであった。黒い門は私の縁家先の屋敷で私は屡々ゼーロンを駆ってそこへ攻め寄せた事があるので、こう云ってかなたを指差したならばさすがの驢馬も往時の花やかな夢を思い出して息を吹き返すであろうと考えたが無駄になった。私は、その洞《うつ》ろな耳腔《みみ》に諄々《じゅんじゅん》と囁《ささや》くことで驢馬の記憶を呼び醒《さま》そうとした。
「ゼーロン。お前は、強欲者の酒倉を襲って酒樽を奪掠《だつりゃく》するこの泥棒詩人の、ブセハラスではなかったか! あの時のようにもう一度この鬣を振りあげて駆け出してくれ。これでも思い出せぬと云うならば、そうだ、ではあの頃の歌を歌おうよ。僕が、この Ballad を歌うとお前は歌の緩急の度に合わせて、速くも緩《ゆる》やかにも自由に脚竝みをそろえたではないか。」
杯《さかずき》に触れなば思い起せよ、かつて、そは、King Hiero の宴《うたげ》にて、森蔭深き城砦《じょうさい》の、いと古びたる円卓子に、将士あまた招かれにし――私は、悲しみを怺《こら》えて爽快げな見得《みえ》を
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