車の男が、私に向つて手をあげて、
「納屋に帰りますか?」
と呼びかけた。納屋といふのは、魚場の従業員の合宿所の謂である。――私は別段それに答へようともせずに、大きな、間の抜けた声を挙げて、
「お早う、G――、凄い働き振りぢやないか! 昨夜は、あれから真ツすぐに帰つたと見えるね。」
などと問ひ返した。牛車の御者は納屋の従業員でゞもあるG――と呼ぶ親孝行で評判の若者であつた。
この頃来る日も/\、風であつたり、雨が続いたり、晴れたかと思へば潮流が定まらなかつたりしてゐるので網をあげてからもう十日あまりも経つのであつたが、未だに一向潮模様が収まらなかつた。納屋の広場には網の塁が築かれ、浮標に使ふ貝殻のついた四斗樽が幾十となく其処に転がつてゐた。そして、多くの従業員達の――賢者は野良へ戻つて田を耕し、馬鹿は町の廓へ通ひ詰め、飲酒者は居酒屋で夜を更し、孝行者は父母の許へ帰宅して森や林へ薪を拾ひに行つてゐる――といふことになつて、納屋に完全に居続けてゐるのは気象係りのHと呼ぶ農学士と、そして其処の参観者とも食客ともつかぬ立場の私達夫妻だけであつた。だが、Hも二日ばかり前の晩に、性急な舌打ちを
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