には、漁場の忙しかつた時分に矢つ張り私も共々にシャツの腕まくりをして、誰に頼まれたわけでもないのに大汗をしぼつて模写などをした幾枚かの海洋図が散乱したり、作りかけの星座表が投げ出してあり、床には、つい此間まで有り難さうに部屋隅の書棚に飾り立てゝあつた古典ギリシャの芸術、科学、哲学に関する種々様々な書物が、くづれた煉瓦のやうに投げ棄てられ、三脚の上の望遠鏡は、直角に、古ぼけた天井を指差し、覆ひの布が被せられて有つた。
私は、暗い片隅の固いベツドに横たはつて、ぼんやりと薄眼をあいてゐた。もう、とうに夜になつてゐたにも関はらず、私はランプを点さう――ともしなかつた。
私は、時々カーテンの合せ目を細く開いて感慨深気な眼《まなこ》を傾げて、ひとり悦に入つてゐるかのやうな有様であつた。――「シノン物語」に、うつゝを抜かしはじめて以来私にとつて一つの新しい心癖が生じてゐた。私は、この展望室にゐる時は云ふまでもなく、細君と共に食卓を囲んでも、納屋の連中と共に会議に列席しても、村の酒飲連とマメイドで乾盃してゐる時でも――たゞ、其処が室内でさへあれば、それが木馬の腹の中のやうに、はつきりと、そのやうに
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