もお妙も、これが樽野の悴だといふ見極めがつくまでは多少の時を要されたのであつた。脚は、交互の脚踏みをしてゐるやうに片方だけを曲げてゐる。腕は、うしろ手に縛られたかたちで背中に載つてゐる。――二人とも身動きもしない。蒸あつい西日が、開け放しの部屋に一杯あたつてゐた。その閑寂の中に二人の鼾だけがゴーゴーと鳴つてゐた。
「相変らずね……まあ!」とお蝶は、心もち顔を顰めてお妙を顧たのであつた。――彼女は、一途にがつかりした。
「お起しゝようか?」
「好いよ、来てしまへば――もう好いよ。お目醒めになるまで、斯うして待たう。」
お蝶は、寧ろ自分のために、暫らくさうして待つてゐたかつた。
「小さい奥さまは、お留守……」お妙が云つた。「お坊ちやんも……随分大きくおなりになつたらうね。」――「あら、やつぱし小さい奥さまつて称んで好いかしら?」
「それは――好いさ。」
「ぢあ、若旦那は?」
「…………」
「何だか、あたし、やつぱしさうより他に云へないやうな気がするわ。」
「…………」
「ねえ、関《かま》はないかしら?」
「……あたし達だけは関はないだらう、ひとりでなほ[#「なほ」に傍点]るまでは――。変な心持で、急に他の称び方をすることもないだらうさ。」
さう云つてお蝶は、忘れてゐた煙草に火をつけた。――この悴の、四年前に死んだ父をダンナ、ダンナ! と称んでゐたお蝶達だつたが、お蝶は、今ではこの悴は真面目な務めに通つてゐるとばかり聞いて訪れて来たのであるが、一目この様子を見たゞけで、あの頃の彼と少しも変つてゐないことに気づいてゐた。そればかりでなくお蝶の気分は、ぼんやり、あの頃の彼等に戻つたやうに、夢に走つてゐた――お蝶の頭は酷く疲れてゐた。
「随分好くおよつて[#「およつて」に傍点]いらつしやることね、お二人とも……」
お妙は、折角来ても――といふ顔色を露はに示した。――「小さい奥様は何処へいらつしつたんだらうね。」と、悴の女房のことを案じた。
お蝶は、ふと、この家の生活《くらし》のことなどを考へると、惨めに、夢から醒めた。――滞在するつもりで来いとか、方々の芝居を案内するとか、いろ/\景気の好さゝうなことを云つてゐたが、あれは皆な可哀相なお世辞だつたのか――部屋の中を見渡したゞけでもお蝶は、さう思はずには居られなかつた。だが彼女は、別段来なければ好かつたといふやうな気も起ら
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