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[#5字下げ]二[#「二」は中見出し]
「直ぐに解つて?」
昨日でも会つた人のやうな調子で樽野の女房は、親し気にわらつた。お蝶は、吻《ほ》ツとする共に急に胸が一杯になつて直ぐには口が利けなかつた。
「え、直ぐに――」と云つた。
直ぐに解つたどころではなかつた――終ひには俥屋までが舌を鳴した。――「この先きはもう畑ばかりで家なんてありませんぜ。」
「あの、西洋館みたいな家ぢやないかしら。」
「あれは何某《なにがし》さんといふお宅ですよ。」
この横町の前なら、とうに通つたのであつた。停車場から割合に近いところだつた。引き返した道々、ふつとこの長屋の角の家を見ると、名刺の裏か何かに「タルノ」と片仮名で書いた紙片《かみぎれ》が貼つてあつたのを、お妙が見出したのであつた。
袷では汗が滲むほどの陽気だつた。花季が過ぎたばかりだといふのに、この陽気はまつたくどうかしてゐる、この二三日来の馬鹿陽気はまるで夏だつた。
いくら頼む/\と訪れても何の返事もないので、お蝶が縁側の方へ廻つて見ると、開け拡げた座敷に男が二人グウ/\と眠つてゐるところだつた。
「まあ、無用心なこと、誰もゐないのに。」
「やつぱしさうだつた。こゝだつた。あれ、たしかにさうね、こつち――」
「……さう、たしかに――まあ、よかつた。」
「あれ、お客様かしら?」とお妙は、のぞいて見て「あら、ツーさんよ、ほら、いつかヲダハラの家にいらしつたことのある!」と叫んだ。
「どれ……うむ、さう/\――ケーオーの書生さんだつた!」
はじめは座蒲団を枕にしてゐたんだらうが、二人とも枕とは飛んでもないところに頭を転がして、殺されたやうに眠つてゐる……。
「ツーさん」は、さかさまに梯子段からでも落つこちたまゝのやうなかたちで、一本の脚は高く籐椅子の上に載せ、片方の脚は頭の近くまで飛ばせて、ワツと叫んだ者のやうに両腕を拡げてゐた。――樽野の悴は、着物などはまるで体から離れて腰にはさんだタオルのやうに傍の方にまるまつて、シヤツと股引《もゝひき》ひとつになつてしまひ、腹匐《はらば》ひで、頬つぺたをぢかに畳におしつけ、涎を垂してゐた。鼻は畳におされて横に曲り、一つの鼻孔しかあいてゐない。口は三角に圧《お》しつぶされてゐるし、下の眼は「猫の眼」なつてゐる。泣き顔みたいにも見えるし、怖しい苦悶を表してゐるやうにも見える。――お蝶
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