お蝶の訪れ
牧野信一
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)妙《たあ》ちやん
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)お花見|季《どき》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#5字下げ]一[#「一」は中見出し]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)うと/\
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[#5字下げ]一[#「一」は中見出し]
いま時分に、まだ花のあるところなんてあるのかしら? ――はじめて来た方角には違ひないのだが、案外だ! この様子を見ると何処か途中にでも花見の場所があるのらしいが、どうも妙だ!
何処の花だつて、もうとうに散つてゐる筈だが――花見と云つても、あの時のは芝居見物のことだつたが、あれに誘はれたのはやがてもう一ト月も前になるぢやないか! あの頃が、それでも田舎よりはいくらか遅い東京のお花見|季《どき》だつた筈だ……と思ふんだが、さうでもなかつたのかな! あの時もあの連中と一緒に出かけてついでに此方に廻らうかとも思つたのだが、何といふわけもなしにお花見季といふことに遠慮でもしたい気! 遠慮でもないが、何だか臆劫な……かしら? まあ、お花見季が過ぎてから――といふつもりで、今日にしたのだつた。
それだのにこの電車の有様といつたらない、往きなのか帰りなのかも知らないが、皆なお花見の連中ばかりだ、何処に今ごろ咲いてゐる花があるのかな?
今ごろ花があつて! あんなに浮れてゐるお花見の連中! ――何だか飛んでもない国に来てしまつたやうな気がする! ……ゆうべ、さつぱり眠らなかつたせゐか寝不足も酷い! 半日あまりも乗る汽車なのだから、中で少し位うと/\出来るだらうと思つてゐたのに、それも駄目だつた……。
お天気はのどかで、とても好い日なんだが、たゞでさへ眠くでもなりさうなうら/\とする日なんだが――いくら慣れないとはいふものゝ、ほんの一寸した知らない所へ行く位が、こんなにも気苦労では、あたしも仕様がないといふものだ!
煩い/\/\! まあ何といふ騒々しい電車なんだらう、何といふ大変な浮れ様だらう、あの連中は! よく車掌さんが文句も云はないものだ。
「あゝ、のぼせあがつてしまふ。」
お蝶は、それでも他人に悟られることを怯れて、そつと呟いた。――「窓をあけようかしら? 妙《た
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