に長い、そして、心に何の予猶も持つことの出来ない程苦しい或る小説に没頭してゐる最中だつた。息も絶へ絶へになりさうな苦しみだつた。一晩書いては、二晩続けて泥酔をする日ばかりを送つてゐた。そして未だ、稿半ばにも至つてゐなかつた。彼は、その小説で、父の死後に於ける母に対する子の或る苦しみに参つてゐた、そんなことより他に書くこともない愚劣な己れを呪ふ心から書き始めてゐたのである。自ら拵へた道徳の鞭に打たれて、悲鳴を挙げてゐるのであつた。
 そんな場合だつたので一層C氏の言葉が、彼を明るくして呉れたのである。古い、あゝいふ種類の追憶にも、自分の文章の脈があるか、と思ふことは、彼にとつては、可成りの慰めに違ひなかつた。――現在のそんな「苦しさ」に没頭することは、寧ろ、愚かな業で、徒に心も文章も支離滅裂にしてしまふ怖れさへ感じた。
 それで彼は、『或る日の運動』を読み始めたのであるが、たしかに指摘した筈の多くの誤植活字が、一つも訂正されてゐないので、多少の迷惑は感じたが――「だが私は、自分の小賢しき邪推を、遊戯と心得てゐた頃だつた、愚昧な心の動きを、狡猾な昆虫に例へて、木の葉にかくれ、陽りを見ず、夜
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