へたことを後悔しながら、今にも嘔吐が堪へ切れなくなりさうに激しい咳を続けた。
清友亭に来た母は、気嫌が好かつた。あんな母を彼は、嘗て見たことがなかつた。
「稀に此方へ帰つて来た時は、お酒を飲むのも好いだらうが、東京へ行つたら気をおつけよ、お前はあまり癖の好くない質だから……」
この母の言葉の前半は、今迄の彼女なら決して云はない言葉である、そして後半は他人には母らしい心遣ひのやうに響くが、彼には穏かに聞き逃せなかつた。――癖が悪いと云つたつて僕は、たつた一辺あんな騒ぎを演じたゞけで、それ以外に別段阿母さんの前で乱暴な酔態を示したことはないぢやありませんか――彼は、斯う訊き返してやりたかつた。尤もらしく、母親らしい様子を取り繕つて恥も無さ気に済してゐる母の、黄色味の勝つた容色を眺めると彼は、常套的な疳癪を通り越して、油汗の滲む滑稽を感じた。
「普段は、優しいんですが、どうもお酒が過ぎると……親譲りの血統で――」などと母は、巧みに笑つてお園を観た。
「でも、さつぱりしてゐらつしやるから好うござんすわ。」
「どうだかね……」と、彼は、でれでれした濁声を挙げてセヽら笑つた。せめて、これ位ひに母親を無視した遊蕩的態度を取つて、胸に凝り固まつた滑稽感を散らしたかつた。
「病気が起るといけないから……」
「えゝ、えゝ。」と、彼は、空々しく点頭いた。
「お酒では随分厭な思ひをしましたから。」
「御心配が多うございましたからね。」などゝお園は、変に大業に点頭いてゐた。彼は、一層空々しい気がしてならなかつたが、確りと堪へなければならないものを感じてゐたので――酒でも飲まなければ、反つて病気になつてしまふ――と憎態な調子で口に浮びかゝつた言葉を慌てゝ飲み下した。何としても父親との場合のやうに、陽気になれなかつた。
「――父を売る子! 今度は何を売るんだ。」
酔つた友達に、斯んなことを彼は問はれたこともあつた。「父を売る子」といふ題の短篇を彼は、書いたことがあつた。
「もう何にもない、すつかり売り尽してしまつた。困つたよ。」
彼は、明るい心でそんな戯語が云へるやうになつた。妙な、厭な言葉だが、父を売る心には、今にして思へば、幼稚な罪を感じたゞけで、甘く明るい影もあつた。同じく親であるにも関はらず母に想ひを運ぶと、どうして斯んなにも陰惨な影に苛れ、黒血を浴びる程のグロテスクな罪にばかり閉されなければならないのだらう! 彼は、飽くまでも虫の好い考へから、思はず独りで不合理を叫んだりした。また彼は、他に一つでも出来る仕事さへあれば、道徳の壁に囲まれて、石のやうな生活をする方が安易に思はれた。無能地獄――そんな言葉を拵へて彼は、痴呆性に富んだ苦笑を浮べてゐるより他はなかつた。
「お酒の話なんて、面白くないなア!」
どうかして心を浮きたさせたいと彼は、切りに努めたのであるが、無暗に注ぎ込む酒は鉛になつて胸に載積するばかりだつた。
「お母さんが来たら、唄を歌ふツて云つたぢやありませんか。」
そんなことを聞く、と彼は、顔が赤くなるばかりだつた。
「唄なんて、ひとつも知らないよ。」
「もう帰らうか?」と、母が云つた。
「え、……だけど折角だからもう少し……」
彼の声は、絶へ入りさうに低かつた。
「酔はれては、迷惑だよ。」
心から迷惑さうに母は、呟いだ。
「迷惑なら先へお帰りなさいよ。」と、彼は、思ひ切つて云つたのである。
「あれだ!」と、母は、苦笑した。ほんとの母なら、苦笑は余計な筈だつた。カツとして滔々と彼の否を鳴らさなければ居られない母の筈である。「お出でと云ふから、仕方がなしに来てやつたんぢやないか、馬鹿/\しい、こんなつき合ひは私には出来やしないよ。阿父さんとは違ふんだから……」
調子づいて、阿母などに来て貰つたが、何としても面白くない、面白くないに決つてるさ! あゝいふ[#「あゝいふ」に傍点]自分の妄想は、やつぱり実現させないに限るんだ――などゝ彼は、思ひながらも、お園たちの前には、厳格な母親の言葉に悸々してゐる風を装つたり、或ひは、厳格ではあるが心の温い母親に、いくつになつても甘へてゐる好人物の悴である、といふ風な思ひ入れを示すやうな薄ら笑ひを浮べてゐた。――彼などが、如何程くどく招待しやうとも、今迄通りの頑なを保持して動かない母親を彼は、想像して、その母と戦ふことに依つて、彼女に対する悪感を少くする――そんな想ひに走つたのでもあつた。だが、母の不気味な弱さは彼の心に醜くゝ投影して、彼のそんなパラドキシカルな活気を縮めたのである。
「まつたく、呼んだりして済みませんでしたな! たゞ一寸独りぢや面白くなかつたもので……」
云ひかけて彼は、その面白くなかつたといふのが不道徳な妄想の戯れに過ぎなかつたのを後悔した。母親の眼の前で、言葉と心とうらはらになつて、面白い自分の存在を感ずるなどといふ馬鹿気た真似が出来る筈はなかつたのである。――斯う気がつくと石のやうな酔ひに沈んでゐる自分を彼は、持て余さずには居られなかつた。眼の前に感ずる母が、怖ろしく空々しかつた。――折角酔も回り、好きな芸者達も来たところに飛んだ邪魔物が現れた――と、迷惑がるより他になかつた。
「随分外は寒かつたでせう、もう直ぐ帰りますからまア少しお飲みなさい、風邪でも引くといけませんからね。気の毒でした、気の毒でした。ハツハツハ。」
彼は、突然滑らかに気嫌好くそんなお世辞を云ひながら、母の盃に酌をした。
その先のことを彼は、大方忘れてしまつた。午近くに眼を醒した時には、ちやんと自分の家に寝てゐた。気嫌の悪い真似は何もしなかつたことだけは朧ろ気に覚へてゐるし、前の晩にも増して母が彼に、親切であることから推察しても、それは大丈夫だつたらしい、と彼は、思つた。
「まア今晩は私と、つき合ひなさいよ。」
田村は、彼の問ひには答へずにまた同じことを云つた。何か母から頼まれたことでもあるのぢやないかな? 彼は、そんな気もした。
「僕は、今日は如何しても東京へ帰らなければならないんです。だけどこの分では、汽車に乗れるか如何かゞ怪しまれて……」
さう云つて彼は、苦しく喉を鳴した。あんな野蛮な口論をした周子ではあるが、今思ふと、あの公園裏の佗しい家が寂しく彼の心を惹くばかりであつた。周子の醜い影は消えて、哀れツぽいところだけが懐しく残つてゐた。女のやうな弟の賢太郎と二人で、洋服の裁縫に没頭してゐる姿を思つても、苦笑も浮ばなかつた。五六人の子供を持ちながら周子より他に頼るところのない彼女の母親も、気の毒だつた。英一を伴れて行つたのも仕方がない。――彼は、彼女達に対して斯んなにもパツシイヴな心になつて、何の抵抗も起らないのが可笑しかつた。十景のうち一つしかないやうな静かな光景だけが絶れ/\に佗しく浮ぶばかりだつた。
周子は、喧ましい酔ひ振りの夫の声が止絶れた時、
「あれは何の声だらう。」と、眼を視張つた。雨の降つてゐる秋の夜更けだつた。動物園で叫ぶ獣の声が聞えるのであつた。「獅子かしら? 虎かしら?」
「一寸、好いぢやないか。」
彼は、首を傾けて気障な声を挙げた。
「山の中にでもゐるやうだわね。」
「そんなこともないさ……」
「あなたの帰りが遅い晩は、あれが怖くて仕様がないわ。」
「俺が居れば怖くはないのか?」
「…………」
そんな無意味な光景ばかりが浮んだ。――だが彼は、また東京へ戻つて彼女等に取り囲れて、打算的な愛嬌を示されて苛々することを思ふと、退儀だつた。
彼が、相手にならないので田村は、手持ぶさたになつて隣室へ行つて母と話を初めてゐた。震災の前から飼つてゐた※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]の残りが二三羽、潰れた儘になつてゐる庭を静かに歩いてゐた。
お蝶のことを考へても彼の心は動かなくなつた。いつの間にか彼女も微々たる「お伽噺」の端役に変つてゐた。――Fの遠い幻だけが、まだお伽噺にもならずに、夢のやうな明るさを、細く彼の胸に残してゐた。「その後の母と彼」の仕事は打ち切つて、NやNの母の空想を混ぜないFの追想をそれに換へよう――斯う思ふと、わずかな光りが味へる気がした。
椽側の隅に古く土に汚れた書籍が一塊りになつてゐた。彼は、そこから二三冊の本を選び出して、日向で繰り拡げた。読書嫌ひの彼は、退屈な時には徒らに辞書を眺める癖があつた。[#横組み]“Synonyms and Antonyms”[#横組み終わり]そんな名前の字引を彼は、偶然見出した。あのオペラ・グラスを貰つた頃、これも矢張りFの贈り物だつた。例へば、[#横組み]“Peril”[#横組み終わり]といふ文字を引くと、それの同意語として[#横組み]“Danger”[#横組み終わり]とか[#横組み]“Risk”[#横組み終わり]とか、[#横組み]“Venture”“Uncertainty”“Jeopardy”[#横組み終わり]等々々などといふ同意語が挙げてあり、同時に反意語として[#横組み]“Security”[#横組み終わり]とか、[#横組み]“Safety”[#横組み終わり]とか[#横組み]“Certainty”[#横組み終わり]等々々といふ風な文字が列挙されてゐるのだ。解らない文字の意味も、二十も三十も同意語、反意語で例証されゝば自づと通ずるのである。彼の英語が余り不たしかなのと、不得手で不便なことをFは迷惑がつて、多少皮肉な意味を含めてFが彼に贈つたのである。皮肉には違ひなかつたのである。Fは、扉に斯んな悪戯書きを残した。
[#ここから横組み]
“My father was a Farmer
Upon the Carrick border, O,
And carefully he bred me
In decency and order, O;
He bade me act a manly part,
Though I had ne'er a farthing, O;
For without an honest manly heart,
No man was worth regarding, O.”
[#ここで横組み終わり]
彼には、わけが解らなかつたがFが、これはロバート・バーンスの詩の一節だと云つたのである。彼は、「同意語と反意語」を何遍も何遍もひつくり返して判読したのだが、事更にそんな言葉を与へられたかと思ふと、皮肉にとらずには居られなかつたのだ。
彼は、此の頃の自分の鈍い心は常に低い程度でうらはら[#「うらはら」に傍点]に動くばかりの気がしてゐた。鈍くても好いから「一つ」に止まりたかつたのである――そんな空想に時々走つた。
「一晩泊りで帰るなんて、珍らしいことぢやありませんか。」
「何だか、務めの方が忙しいさうなんです。」
「へえ! 務めてゐるんですか。」
絶れぎれに田村と母の話が洩れてゐた。
彼は、寝転んだ儘徒らに字引を繰つてゐた。自分がどんな幼稚な芝居気に囚はれてゐるかも気づかずに、微かな声などをたてゝ、数でも算へるやうにブツブツと呟いでゐた。
「悪といふ文字を探して見ようかな。……なる程あつた/\キタナラしい程列んでゐやアがる。……[#横組み]“Evil”[#横組み終わり]だな!
Syn = Ill, noxious, deleterious, wrong, bad, mischievous, hurtful, sinful, unhappy, adverse, unpropitious, wicked, corrupt, harmful, unfair, notorious, miserable, sorrowful.
Ant = wholesome, beneficial, right, virtuous, holy, pure, happy, fortunate, felicitous joyous, welcome, grateful, good.」
斯う読んで見ると[#横組み]“Evil.”[#横組み終わり]の同意語は、悉
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