解つてゐますよ、賢夫人、まア好いからお酒をお飲みなさいようだア! 婆アの癖に羞かむねえ、チエツ、薄気味の悪い! いや、これは失礼、婆アだなんてもつての外だつた……なにしろ阿母さんは、そんなにお若くていらつしやるんですからねえ――と、一本深刻気な皮肉を云ふのも愉快だらうぜ――一体私は、阿母さんがおいくつの時に生れたんですかな、僕アどうも算術が不得意で、半端な数の引算は直ぐには出来ないんだが、……僕アまつたく斯んな家に生れたくなかつたんだがね、おツと、何をつまらない愚痴を云つてゐやアがるんだい――。
「まア、そんなことは如何でも好いんだ、フツフツフ……馬鹿にしてゐやアがらア!」
「さア、お酌ですよ。通人におなりになつた若旦那! 何か歌でも聞かせて下さいませんか。」
「何だつて! ふざけるねえ、田舎ツペ!」
 ――……ねえ、阿母さん、あなたに歌でも聞かせてあげませうかね。それはさうと私も、春にでもなつたら思ひ切つてひとつ外国へ行つて来やうかと思つてゐるんですよ、周子の奴も沁々厭になつたし……と、云つたら、さぞさぞ阿母の奴は悦ぶだらうね、わが意を得たるが如くに、か……だが、あんな者と結婚してうち[#「うち」に傍点]もそれからそれへ、飛んだ破目になつたものですなア! そこで、倒々阿母さんまでが――と、云ひかけてさ……。
「ハツハツハ……」
「トン子さんに嫌はれますよ、そんなにお酔ひになつて……」
「ハツハツハ……」
 ――ハツハツハ、と、鷹揚に、肩をゆすつて笑つたら、阿母の君! どんな顔をするかな、何とか家の、何とか武士の娘! うむ、僕ア如何してもFの処へ行つて来るんだ、何も周子との結婚がうちに祟つたからと云つて、何も彼女を憎む程吾輩だつてケチ臭いわけぢやないんだ、たゞ虫が好かなくなつたまでのことだよ、恰もヘンリー・タキノのそれの如くにさ。あんな者のセイにするのは卑怯至極だ、キレイなことばかり聞されてゐたので、俺もそのつもりで生きて来たんだが、昔からうち[#「うち」に傍点]なんてそんなものだつたに違ひない、阿母の若い時分なんて、何が何だか解つたものぢやない、ぢや、どうして子供まであつたのに親父はアメリカなどへ出かけて行つたんだア! 俺アもう日本になんか帰つて来まいと思つてゐたんだが親父が死んだので無理に呼び帰らされてしまつたわけなんだ、などゝいふことをヘンリーが俺に話して、俺の気持を暗くさせたこともあつた位ひだ……余ツ程、嫌はれたらしいな、して見ると……。
「阿母を呼べ、阿母を呼べ!」
 食卓に突ツ伏して、泥酔してゐる彼は、ブツブツとわけの解らないことを呟いでゐたかと思ふと、突然そんなことを叫んだ。
「阿母を呼んで貰はう、何でえ、婆アの癖に白粉なんかつけやアがつて……カツ!」
「稀に帰つてらしつて、またお母さんと何かやつたんですね、いけませんね!」
「やるもやらないも、あるもんけえ!」
「悴が我儘で困るツて、此間もお母さんが滾してゐらつしやいましたぜ、旦那のある時分とは違ふんですから、若旦那が……」
「俺ア若旦那ぢやねえ、天下のヴアカボンドだア。」
「今になつてお母さんと仲が悪いなんていふことが知れると、それこそ皆なに馬鹿にされるぢやありませんか。」
「何となく、俺は、阿母の顔つきが気に喰はんのだ。」
「戯談ぢやありませんよ、何をつまらないことを云つてゐらつしやるの?」
「あの声を聞いたゞけでも、虫唾が走りさうだ、あの色艶を想像すると、鳥肌になる……」
「…………」
「驚かなくつても好いよ。これはね、西洋の芝居の声色なんだよ。」
「そんな西洋の声色なんかでなく、あたし達にも解る日本のを聞せて下さいよ。」
「オークシヨン・マーケツトの悪商人が、烏の嘴を絵具で染めて、九官鳥に見せかけたが声を出されると大変だつたからギユツと喉笛を握つてゐると、苦悶の烏がしやがれた叫びを挙げた――そのやうな声だ。」
「ほんとに、日本の声色をやつて頂戴よ。」
「阿母の顔を見るのも厭だア!」
「また始まつた、あたし悲しくなるから止めて下さいよ、そんなことを聞くと……」
 ――うむ、さうだ、こんな筈じやなかつたんだ、阿母を相手に気嫌よく飲まう、飲めるかな? と思つてゐたところなんじやないか、いや、もう大丈夫だ………。
「なアに久し振りで一寸親父の声色をやつて見たんだよ、好くそんなことを云つて俺たちを困らせたつけなア! それも間もなく、一週忌かね、三月になると。――思ふ間もなくトンネルの、闇を通つて広野原、とかツて小学唱歌があつたね、――今ハ山中、今ハ浜、今ハ鉄橋渡ルゾト、かね。」
「三日には屹度来るツて、お蝶さんも云つて行きましたよ。」
「あんな悪口家の親父にかゝつちやア、阿母もさんざんだつたね、俺、今でも思ひ出すと気の毒になるよ。で、無理もない、といふことになるのかな……」
「ぢや皆なで唱歌を歌ひませうよ。汽車の歌ならあたし知つてるわ。」と、隅の方にゐた小さな雛妓が云つた。
「うむ、やつて見ろ。」
「合唱よ。」
「皆なでやつて見ろ。」
「――遠クニ見ユル村の屋根、近クニ見ユル町の軒、森ヤ林ヤ田ヤ畑、後ヘ/\ト飛ンデユク――廻リ灯籠ノ絵ノヤウニ、変ル景色ノ面白サ、見トレテソレト知ラヌ間ニ、早クモスギル幾十里――」
「何だか面白くねえな。何かもつと景気の好い歌をやつて貰はうか。お園さん、喧嘩ぢやないんだから阿母に電話をかけて呉れよ、さういふわけでね、阿母を気の毒に思ふのさ、だから一つ大いに仲善く……まつたく親父は酷いよ、自分が勝手なことばかりして罪もない阿母の悪口を云ふなんて……」
「そのおつもりで、これからは沢山親孝行をしなければなりませんね。」
「うむ、解つてゐるとも。屹度来るから呼んで呉れ、俺が酔つ払つてしまつて、如何しても阿母が来なければ帰らない、と云つてゐると――さう云つて呉れ。」

[#5字下げ]九[#「九」は中見出し]

「君は甘やかされて育つて来たんだよ。そして、兎も角我儘者なのだ。この先多くの苦しい人生の経験に出遇つて、いろいろ眼醒めることが多いだらう。」
 友達の一人が、彼に親切にさう云つて呉れたことがあつた。そして彼を本位にして、いろいろな忠告を与へて呉れた。彼は、自分を本位にされて快い忠告など与へられた験しがなかつたので、内心では可成り嬉しかつた。だが彼は、我儘者とか、甘やかされて育つたとか云ふ言葉を、好き意味に解釈して、嘗てそんな甘さに酔つたこともない癖に、わざとらしくそれらの言葉を、羞むやうに点頭いて受け容れた。さういふ態度をすれば、自分に対する相手の好意が更に増すであらう、などゝいふ風な狭い考へがあつた。相当の年齢に達してゐるにも関はらず彼は、幼稚を衒ふ婦のやうに姑息な心をもつてゐた。一体彼は、他人と相対してゐる時は、たゞでさへ朧気な己れの個性は悉く消滅してしまつて、鸚鵡の如くひたすら相手の気嫌を伺ふやうな心にのみなつてゐるのが常だつた。或る時は強がり、或る時は弱がり、或る時は神経質がりするが、それは悉くピエロの仮面を覆つた功利的の伴奏に他ならなかつた。自信がなくて、さういふ結果になる彼だつたから、独りの時は何の思想もない、たゞ人形の姿を持つた一個の物体に過ぎなかつた。だから多少でも他人の心の解る程な神経の鋭敏な潔癖家は、一時間以上彼と対話する辛棒は出来なかつた。
「苦しいことに出遇つて眼醒めるとか、成長するなどといふ繊細な感受性を、僕は、生れながら忘れて来たやうな気がしてならない。」
「さう云ふ、云ひ回しをするものぢやないよ、取りやうに依つては随分厭味にもなるぜ。」
 寧ろ媚の気持で彼は、云つたのであるが、忽ち相手に見破られて、彼は唖然とするより他はなかつた。
「一体君は、さういふ悪い癖があるよ。誇張して云へば、自分を軽蔑するといふ風に見せかけて、反つて相手を軽蔑するといふ……」
「戯談ぢやない。」と、彼は、思はず慌てゝ叫んだ。だが直ぐに彼は、それをも受け入れるやうにニタニタと苦笑を洩してゐた。そんな業のある筈はなかつたのだが、そんな風に云はれると彼は、如何にも自分は辛辣な心を持つてゐるんだ、などと途方もない誤解をして、尤もらしく顔を歪めた。
「それは、たしかに悪い癖だ。さういふ独り好がりは、……」
「独り好がり?」
「勿論だよ、身を滅す種だぜ。」
 相手は、稍々疳癪を起して、だが彼に解るやうに平易な言葉で、二三の例など挙げて諄々と批難を浴せた。その男は彼よりも二つばかり年少の文学研究家だつた。
 批難されると、彼は、忽ち滅入つてしまつた。滅入つたりすることすら擽つたさを覚えたが、余計な圧迫を強ひられて漠とした恐怖に襲はれずには居られなかつた。そして彼は、取り縋るやうに可細い声を挙げて、倒々斯んなにわざとらしいことを云つた。「勘弁して呉れ、まつたく君の云ふ通りだ。僕は、実際自分の言葉を持ち合せないんだ。厭々ながら強ひて持たうとすれば、己れの愚に疳癪を起す言葉だけなのだ。」さう云つた時彼は、思はず歯の浮くやうな可笑しさを覚えたが、努めて神妙に続けた。「如何思はれても、それはまつたく悲しいことだが、他に術がないんだから仕方がないんだ。僕は、せめて、自分の執つた弓で自分の胸に矢を放つて、その痛さを感ずる刹那に、多少の生甲斐を感ずるより他にないんだ。これは決して遊戯ではない。痛い/\と叫ぶ悲鳴なんだ。それも中毒が日増に強くなつて、近頃では普通の矢では悲鳴も挙げられなくなつてしまつた。土人の使用する毒のついた矢でなければ痛痒を感じなくなつてしまつた。それも何時まで続くことやら? 例へば自分の胸に打ちつける矢の種類だつて、せいぜい二三種しか持ち合せないからね、加けに一度使用した矢は、二度目には役にたゝないぢやないか、最後の毒矢を放つて打ち倒れてしまへば寧ろ幸福かね。」
「打ち倒れてしまふことを怖れるんだよ。」
「この分で行つたら、間もなく僕の心は、君の云ふ通り、風の如くに干からびてしまふに違ひない。」
「風の如く、だなんて僕は、云はないよ。」
「一辺使つた矢を削り直すかね。いろいろ工夫をして、矢尻りを様々な形に拵へ直すかね、……ところが、その工夫の頭が無い、削り直す小刀はすつかり錆びてしまつた。」
「君は、楽天家だよ、そんなことを云つてゐられるんだから……」
 相手は、ムツとして横を向ひてしまつた。
 また彼は、別の友達に斯んなことを云つた。「僕は、此頃発明家といふ者に同感してゐるよ。スリ鉢がグラグラしない道具を発明した苦学生の新聞記事を見た時も、可成りな尊敬を払つた。これも新聞の記事だが、英国の或る男で、水の上を自由に歩くことが出来る靴を発明した奴があるぜ。」
 削り直す小刀だとか、発明だとかと、そんな無稽なことを喋舌つたことを思ひ出して彼は、馬鹿/\しい苦笑を洩した。
 母と襖を隔てゝ彼は、日本画家の田村と退屈な話を取り交してゐた。田村は彼れよりも十歳ばかり年長の、彼の父の酒飲友達だつたのだ。――前の晩の宿酔で頭が重く、これから汽車に来ることを思ふと、吐気を感ずる、あしたに延ばさうかな――彼が縁側に丸くなつて、陽を浴びて寝転びながら、そんな退儀さを想つたり、無稽な空想に走つたりしてゐたところに、田村が来たのである。
「今日は、ひとつ私とゆつくり飲まうぢやありませんか。」
「動くと吐きさうで仕様がないんです。」
 ゲツゲツと喉を鳴しながら彼は、顔を顰めた。それだけのことを喋舌ツても、胸に溜つてゐる苦い酒が揺れて、今にも込みあげて来さうだつた。「ウツ! あゝ気持が悪い。」
 実際そんなに苦しかつたのだが、そんな状態を隣室の母が耳にして、何か意味あり気に感じはしなからうか――彼はふと「これも遠慮した方が好いだらう。」と、気附いた。
「昨夜は、大分愉快だつたさうですなア!」
「なアに……」
「お母さんと一処の遊興ぢや、無事で好いですね。」
「まつたくね。――ウツ、ウツ、ウツ、どうも宿酔は苦しいですね、どうも、いかん! 気持が悪るくて……阿母がそんなことを云ひましたか?」
 田村は、不決断な笑ひを洩した。彼は、うつかり余計な質問を附け加
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