ュ彼の心のシノニムに思はれ、[#横組み]“Ant”[#横組み終わり]十三語には、一つも恵まれてゐない気がして、夫々の文字が彼の眼の前で、壁を隔て/\哄笑してゐた。だが、さう思ふと彼は「その後の母と彼」の仕事に多少の力を得た。母に対しても、周子に対しても、その彼の弱さは決して[#横組み]“Evil”[#横組み終わり]の反意語ではなかつた。二つのうらはらの心と思つたのは、皆な彼の自惚れだつた。
「Ill, noxious, deleterious, wrong, bad」
彼は、気障な文学青年らしくそんなことを呟きながら、澄んだ空を見あげてゐたが、また激しい咳に襲はれた。
「薬を飲んだら如何かね。」
唐紙を隔てた儘母が、声をかけた。
たゞ、いりません! と、返事をすれば足りたのに彼は、
「薬なんぞ飲めば、反つて気持が悪くなるばかりだ。」と、叫びながら一層激しく、今にも嘔吐が堪へ切れなくなりさうに咳き込んだ。
翌日、彼が出ける時母は、彼の外套姿を眺めて、
「何だかお前の外套は、薄ツぺらで寒さうぢやないか、阿父さんのを出してやらう。」
さう云つて、襟に毛皮のついた父の外套を取り出して来た。毛皮のついた外套などは、自分に不相応でもあるし、若者の着るべき物ではない――彼は、さう云はなければならなかつたが、云ひ損つた。そして自分の外套を脱ぎ棄てゝ、母が掛けて呉れるが儘に、後ろ向きに立つた。自分の働きが出来るまでは、絹物は一切身につけてはならない――常々さう云つてゐた母である。彼が学生時分派手なネクタイを用ひたと云つて、鋏で切つてしまつた母である。
襟をたてると、耳の上まで埋つた。彼は、母が呼んで呉れた俥の上で、鳥打帽子の前《ひさし》を眉の下まで降し、毛皮に埋つた頬ツぺたの生温い感触に擽つたさを覚えながら、停車場へ走つた。東京へ帰つたら直ぐに「その後の母と彼」を書き続けよう、さう思ひながら彼は、狡い笑ひを浮べた。外套の襟にさへぎられた白い呼吸が、鼻や眼に触れた。[#地から1字上げ](十四、二)
底本:「牧野信一全集第二巻」筑摩書房
2002(平成14)年3月24日初版第1刷
底本の親本:「中央公論 第四十巻第四号(春季大附録号)」中央公論社
1925(大正14)年4月1日発行
初出:「中央公論 第四十巻第四号(春季大附録号)」中央公論社
1925(大正14)年4月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※底本の表題には「「悪《イーヴル》」の同意語《シノニムス》」とルビがついています。
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年1月17日作成
2010年5月23日修正
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