返つて擽られるやうな間の悪さを覚へた。あれまで彼は、母の前で父を罵倒ばかりしてゐたのである。
 彼は、白い息を吐きながら氷つた道をコツコツ歩いてゐた。暫らく歩いて、一寸振り返つて見ると、おでん、かん酒の提灯が、煙草の火程に小さく闇の中にぽつりと止まつてゐた。――望遠鏡を、あべこべにして見ると風景は、実際の距離の二倍に遠くなつて、さながら箱庭のやうに小さく映る――独りになつた時のこの頃の彼の心境は、そのやうに熱がなく、まつたく箱庭の泥で拵へた豆人形になつてゐた。ゆるやかな波の音を耳にしながら独りで斯んな暗い路を歩いてゐると、今にも暗の中へ吸ひ込まれて煙になつてしまひさうに心細かつた。――清友亭より他に、行く処はなかつた。
「東京へいらしつたと思つたら、忽ち通人におなりになりましたわね。」
 彼は、坐敷に入つて少しばかり酒を飲むと、急にぺらぺらと愚にもつかないことを喋舌り出したのである。で、お園は、さう云つて笑つたのである。
「この間、お墓参りをして呉れたのだつてね、有り難う。」などと、彼は、わざとらしいお世辞を云つた。
「まア! お蝶さんから便りがありまして?」
「彼は手紙は書けないんだ
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