ろからオペラ・グラスを取り出して眼に当てゝ見るところだつた。ふところがふくらんでゐる格構を好む彼は、何時でも不用な物を持ち歩くのが癖だつたが、この頃ではその眼鏡を離さなかつた。
 彼が、この前清友亭を伴れ出されてから、周子と英一はお蝶達と一処に、東京へ出かける日まで此処に起き臥ししてゐた。「阿母が謝まらないうちは、俺はこゝに坐つてゐて、金でも何でも悉く横取りにしてしまふんだ。」
 昼間から酒を呑みながら、お蝶を相手に彼は、強さうなことばかり云つてゐたのだ。
「東京へなんていらしつては駄目ですとも。若旦那が居なくなれば、それこそどんなになつてしまふか解りませんわ。」
 彼が居なくなればお蝶はひとり[#「ひとり」に傍点]にならなければならなかつた。自分が居なくなつて、既に荒れ放題になつてゐる小さな財産などはどう[#「どう」に傍点]なるわけのものでもなかつたが、自分達が居なくなると多少でも母が清々するかと思ふと、動きたくなかつた。そして彼は、それ程でもない癖に、如何にも自分は死んだ父親の忠実な悴だといふ風なことを夢のやうに誇張して喋舌つたのである。
 そんなことを回想すると彼は、今では母から
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