からは、まさか憤つても居られないでせう、ハツハツハツ。」
 念の為に彼は、母にそんなことを訊ねたりした。
「まるで意久地がありはしない、私は可笑しくつて仕様がない。」と、母は云つたが、その声は如何にも陰険だつた。
「どうしてなの?」
 彼は、母の調子に合せて、母と同じく陰険な苦笑を浮べた。
「どうして? と云つたつてお話にも何にもなりはしない。」
 震災以来阿父さんは、気が少々変になつたんぢやないかしら――母は、冷い調子でそんなことを云つた。
「まさか!」と、彼は厭な気がして横を向かずには居られなかつた。が、あくどい説明をする母の話で大体、父がそれ以来どんなに意久地なしになつてゐるか! といふことが察せられた彼は、寂しさなどは感じなかつた。放縦で焦点はなかつたが、今度の母の場合とは違つて、軽く健全な自分の存在を感じたのだ。(勿論母のことは何も知らなかつた頃である。)
「僕、ちよつと浜の家へ行つて見て来る。」
「朝鮮人騒動の噂の時などは、皆な刀を持つて見附を固めたぢやないか、灯りを点けてもいけないといふので、家の中は真ツ暗!」
「随分怖かつたでせう。」
「昔に返つたやうな気がして、――私
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