熱海から帰つた。一年目だつた。
「阿父さんは?」
彼は、母に訊ねた。
「浜の家の方へ行つてゐる。」と、母は云つた。
父の事業熱、放蕩、母の嫉妬、そんなものゝ間にはさまれて、倒々彼は逃げ出すより外はなくなつたのである。母に味方して父と野蛮な争ひをしたのも、その頃の事だ。彼奴とは一生口を利かない――父からそんな憤慨されたのである。一年の間に一度彼は、小田原へ出て来たが、その時父は折好く留守だつた。――私が居なければ、矢ツ張り困ることが多いだらう、さぞさぞ親父は呑気にお蝶の方へばかし行つてゐることだらう――そんな心で彼は、母から父の蔭口を聞いて、余裕あり気な微笑などを浮べてゐたところに、門の格子が開いて父が帰つて来た。
「あれは誰だ!」
唐紙を隔てゝ父の声がした。――彼は、ゾツとして、だが母には、顔つきだけで父を馬鹿にするといふ意味の渋面を示しながら、慌てゝ裏門から逃げ出した。一年の間に父の声は、それだけしか聞かなかつた。母の前で、父を罵ることが母に対する一種の諛ひとなり、かゝる醜き行為にパラドキシカルの優越を感じようとする自らを省みて彼は、暗然とせずには居られなかつた。
「斯うなつて
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