を思つた時、彼は、酷い眩暈を感じて、危ふく倒れるところだつた。と同時に、突然魔物に襲はれる怖ろしさに怯えて、夢中で、動物園裏の家まで駈け込んだ、袂に投げ込んだ眼鏡が、石のやうに痛く手首に打つかるのも関はなかつた。
「芝居を見に行つたの、あんなものを持つて! 昨夜は?」と、周子は笑つて訊ねた。いくら酔つてゐたとはいへ、あんな馬鹿/\しい動作をしたり、感傷に走つたり、他合もない恐怖に襲はれたり、加けに駆け出したりしたことを思ふと、誰にも見られなかつたから好さゝうなものなのに、彼は、恥しさのあまり身の縮む思ひがした。
「行かうかと思つて、出掛けたんだが途中で厭になつて友達のところへ行つたんだ。」
「何処?」
「何処だつて好いぢやないか。」
「あなたは、何でも遠回しに思はせ振りな云ひ方をするのが好きね、遊びにでも何でも行つたら好いでせう、一端怒つて出掛けた位ひなら――」
「今日は、俺を怒らせないでくれ、頼むから。怒ることを考へると、面倒臭くつて仕様がないから。」などと彼は、有耶無耶なことを呟いで、優し気な声で哀願した。
「怒つて出かけたつて、ちつとも怖くはないわよ、直ぐに帰つてくるから。」
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