つた。何を喋舌つたか? どんなことをしたか? それが後になつて解らないのは随分薄気味悪るかつたが、それも毎日のことゝなると慣れてしまつた。動き、喋舌り、笑つたり、憤つたりしながら、顧ると、凡てが茫漠として、死のやうな平静――生きて、眼醒めてゐる時に左様な時間を与へられ得る――そんな風に意味あり気に考へて、わざとらしく不思議がつたり、愉快がつたり、そして酔を心易く思つたりした。
「そりやア、強いさ!」
 オペラ・グラスに就いて、周子が淡白だつたので彼は、ホツとして、気嫌の好い声を挙げたのである。そして無理に酩酊した調子で、
「われは眼に太山を見るなり……荘周夢に胡蝶となり、栩々然として胡蝶となり、か。自ら愉して心に適するや、周なるを知らず、俄然覚むれば即ち邁々然として周なり、周の夢に胡蝶となると、胡蝶の夢に周となるとを知らず……どうだア。」などと、鼻にかゝつた声で吟誦した。
「葉山さんの真似なんぞはお止めなさいよ、柄でもないわ。」
 葉山といふのは、酒飲みの老医師だつた。彼が、父に死なれて悄気てゐた頃、酒の相手になつて葉山氏が、好く彼を慰めて呉れた。葉山氏は、漢詩を作つたり南画を描くこと
前へ 次へ
全83ページ中13ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング