この直覚的統一の発展完成であって、その根柢には始終この直覚が働いている、而してその完成した所が意志の実現となるのである。我々が意志において自己が活動すると思うのはこの直覚あるの故である。自己といって別にあるのではない。真の自己とはこの統一的直覚をいうのである。それで古人も終日なして而も行《こう》せずといったが、もしこの直覚より見れば動中に静あり、為《な》して而も為さずということができる。またかく知と意とを超越し、而もこの二者の根本となる直覚において、知と意との合一を見出すこともできる。
真の宗教的覚悟とは思惟に基づける抽象的知識でもない、また単に盲目的感情でもない、知識および意志の根柢に横われる深遠なる統一を自得するのである、即ち一種の知的直観である、深き生命の捕捉である。故にいかなる論理の刃もこれに向うことはできず、いかなる欲求もこれを動かすことはできぬ、凡ての真理および満足の根本となるのである。その形は種々あるべけれど、凡ての宗教の本にはこの根本的直覚がなければならぬと思う。学問道徳の本には宗教がなければならぬ、学問道徳はこれに由りて成立するのである。
[#改丁]
第二編 実
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