である。思想において天才の直覚というも、普通の思惟というもただ量において異なるので、質において異なるのではない、前者は新にして深遠なる統一の直覚にすぎないのである。凡ての関係の本には直覚がある、関係はこれに由りて成立するのである。我々がいかに縦横に思想を馳せるとも、根本的直覚を超出することはできぬ、思想はこの上に成立するのである。思想はどこまでも説明のできるものではない、その根柢には説明し得べからざる直覚がある、凡ての証明はこの上に築き上げられるのである。思想の根柢にはいつでも神秘的或者が潜んでいるのである、幾何学の公理の如きものすらこの一種である。往々思想は説明ができるが、直覚は説明ができぬというが、説明というのは更に根本的なる直覚に摂帰し得るという意味にすぎないのである。この思想の根本的直覚なる者は一方において説明の根柢となると同時に、単に静学的なる思想の形式ではなく一方において思惟の力となる者である。
 思惟の根柢に知的直観があるように、意志の根柢にも知的直観がある。我々が或事を意志するというのは主客合一の状態を直覚するので、意志はこの直覚に由りて成立するのである。意志の進行とは
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