むしろこの統一に由りて成立するといってよい、芸術の神来の如きものは皆この境に達するのである。また知的直観とは事実を離れたる抽象的一般性の直覚をいうのではない。画の精神は描かれたる個々の事物と異なれどもまたこれを離れてあるのではない。かつていったように、真の一般と個性とは相反する者でない、個性的限定に由りてかえって真の一般を現わすことができる、芸術家の精巧なる一刀一筆は全体の真意を現わすがためである。
 知的直観を右の如く考えれば、思惟の根柢には知的直観なる者の横《よこた》わっていることは明《あきらか》である。思惟は一種の体系である、体系の根柢には統一の直覚がなければならぬ。これを小にしては、ジェームスが「意識の流」においていっているように、「骨牌《カルタ》の一束が机上にある」という意識において、主語が意識せられた時客語が暗に含まれており、客語が意識せられた時主語が暗に含まれている、つまり根柢に一つの直覚が働いているのである。余はこの統一的直覚は技術の骨と同一性質のものであると考える。またこれを大にしては、プラトー、スピノーザの哲学の如き凡て偉大なる思想の背後には大なる直覚が働いているの
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