く考えて見るとその根柢を同じうする者であると思う。凡て理性とか法則とかいっている者の根本には意志の統一作用が働いている、シラーなどが論じているように、公理 axiom というような者でも元来実用上より発達した者であって、その発生の方法においては単なる我々の希望と異なっておらぬ(Sturt, Personal Idealism, p. 92)。翻《ひるがえ》って我々の意志の傾向を見るに、無法則のようではあるが、自ら必然の法則に支配せられているのである(個人的意識の統一である)。右の二者は共に意識体系の発展の法則であって、ただその効力の範囲を異にするのみである。また或は意志は盲目であるというので理性と区別する人もあるが、何ごとにせよ我々に直接の事実であるものは説明できぬ、理性であってもその根本である直覚的原理の説明はできぬ。説明とは一の体系の中に他を包容し得るの謂である。統一の中軸となる者は説明はできぬ、とにかくその場合は盲目である。
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   第四章 知 的 直 観

 余がここに知的直観 intellektuelle Anschauung というのはいわゆる理想的なる、普
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