すという意識が出て来てこれが中心となるならば知識となる、而してこのためすという意識其者がこの場合において意志である。意志というのは普通の知識という者よりも一層根本的なる意識体系であって統一の中心となる者である。知と意との区別は意識の内容にあるのではなく、その体系内の地位に由りて定まってくるのであると思う。
 理性と欲求とは一見相衝突するようであるが、その実は両者同一の性質を有し、ただ大小深浅の差あるのみであると思う。我々が理性の要求といっている者は更に大なる統一の要求である、即ち個人を超越せる一般的意識体系の要求であって、かえって大なる超個人的意志の発現とも見ることができる。意識の範囲は決していわゆる個人の中に限られておらぬ、個人とは意識の中の一小体系にすぎない。我々は普通に肉体生存を核とせる小体系を中心としているが、もし、更に大なる意識体系を中軸として考えて見れば、この大なる体系が自己であり、その発展が自己の意志実現である。たとえば熱心なる宗教家、学者、美術家の如き者である。「かくなければならぬ」という理性の法則と、単に「余はかく欲する」という意志の傾向とは全く相異なって見えるが、深
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