に合った場合を真理、これと衝突した場合を偽と考えるのである。この考より見れば、知覚にも正しいとか誤るとかいうことがある。即ち或体系よりして見て、よくその目的に合うた時が正しく、これに反した時が誤ったのである。勿論これらの体系の中には種々の意味があるので、知覚の背後における体系は多く実践的であるが、思惟の体系は純知識的であるというような区別もできるであろう。しかし余は知識の究竟的目的は実践的であるように、意志の本に理性が潜んでいるといえると思う。この事は後に意志の処に論じようと思うが、かかる体系の区別も絶対的とはいえないのである。また同じ知識的作用であっても、聯想とか記憶とかいうのは単に個人的意識内の関係統一であるが、思惟だけは超個人的で一般的であるともいえる。しかしかかる区別も我々の経験の範囲を強いて個人的と限るより起るので、純粋経験の前にはかえって個人なる者のないことに考え到らぬのである(意志は意識統一の小なる要求で、理性はその深遠なる要求である)。
これまで思惟と純粋経験とを比較し、普通にはこの二者が全く類を異にすると思うている点も、深く考えて見ると一致の点を見出し得ることを述べ
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