て客観的意味を有《も》っている、思惟の本領とする所は真理を現わすにあるのである、自分で自分の意識現象を直覚する純粋経験の場合には真妄《しんもう》ということはないが、思惟には真妄の別があるともいえる。これらの点を明にするにはいわゆる客観、実在、真理等の意義を詳論する必要はあるが、極めて批評的に考えて見ると、純粋経験の事実の外に実在なく、これらの性質も心理的に説明ができると思う。前にもいったように、意識の意味というのは他との関係より生じてくる、換言すればその意識の入り込む体系に由りて定まってくる。同一の意識であっても、その入り込む体系の異なるに由りて種々の意味を生ずるのである。たとえば意味の意識である或心像であっても、他に関係なく唯それだけとして見た時には、何らの意味も持たない単に純粋経験の事実である。これに反し事実の意識なる或知覚も、意識体系の上に他と関係を有する点より見れば意味を有っている、ただ多くの場合にその意味が無意識であるのである。然らば如何なる思想が真であり如何なる思想が偽であるかというに、我々はいつでも意識体系の中で最も有力なる者、即ち最大最深なる体系を客観的実在と信じ、これ
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