の理法あるのみである、この外に天啓というべき者はない。勿論神は不可測であるから、我々の知る所はその一部にすぎぬであろう。しかしこの外に天啓なるものがあるにしても我々はこれを知ることはできまい、またもしこれに反する天啓ありとすれば、こはかえって神の矛盾を示すのである。我々が基督の神性を信ずるのは、その一生が最深なる人生の真理を含む故である。我々の神とは天地これに由りて位《くらい》し万物これに由りて育する宇宙の内面的統一力でなければならぬ、この外に神というべきものはない。もし神が人格的であるというならば、此《かく》の如き実在の根本において直に人格的意義を認めるとの意味でなくてはならぬ。然らずして別に超自然的を云々する者は、歴史的伝説に由るにあらざれば自家の主観的空想にすぎないのである。また我々はこの自然の根柢において、また自己の根柢において直に神を見ればこそ神において無限の暖さを感じ、我は神において生くという宗教の真髄に達することもできるのである。神に対する真の敬愛の念はただこの中より出でくることができる。愛というのは二つの人格が合して一となるの謂《いい》であり、敬とは部分的人格が全人格に
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