対して起す感情である。敬愛の本には必ず人格の統一ということがなければならぬ。故に敬愛の念は人と人との間に起るばかりでなく、自己の意識中においても現われるのである。我々のきのう、きょうと相異なれる意識が同一なる意識中心を有するが故に自敬自愛の念を以て充されると同じように、我々が神を敬し神を愛するのは神と同一の根柢を有するが故でなければならぬ、我々の精神が神の部分的意識なるが故でなければならぬ。勿論神と人とは同一なる精神の根柢を有するも、同一なる思想を有する二人の精神が互に独立するが如く独立すると考えることもできるであろう。しかしこは肉体より見て時間および空間的に精神を区別したのである。精神においては同一の根柢を有する者は同一の精神である。我々の日々に変ずる意識が同一の統一を有するが故に同一の精神と見られるが如くに、我々の精神は神と同一体でなければならぬ。かくして我は神において生くというのも単に比喩ではなくして事実であることができる(ウェストコットというrショップも約翰伝《ヨハネでん》第十七章第二十一節に註して「信者の一致とは単に目的感情等の徳義上の合一 moral unity ではなくし
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