、たとい純粋なる善動機より出でずとするも、多数の人を利する行為の方が勝《まさ》っているというのでもあろう。しかし人を益するというにも色々の意味があって、単に物質上の利益を与うるというならば、その利益が善い目的に用いらるれば善となるが、悪い目的に用いらるればかえって悪を助けるようにもなる。またいわゆる世道人心を益するという真に道徳的|裨益《ひえき》の意味でいうならば、その行為が内面的に真の善行でなかったならばそは単に善行を助くる手段であって、善行|其者《そのもの》ではない、たとい小であっても真の善行其者とは比較はできないのである。次に第二の場合について考えて見よう。動機が善くとも、必ずしも事実上善とはいわれないことがある。個人の至誠と人類一般の最上の善とは衝突することがあるとはよく人のいう所である。しかしかくいう人は至誠という語を正当に解しておらぬと思う。もし至誠という語を真に精神全体の最深なる要求という意味に用いたならば、これらの人のいう所は殆ど事実でないと考える。我々の真摯なる要求は我々の作為したものではない、自然の事実である。真および美において人心の根本に一般的要素を含むように、善
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