が最上の善であるか。我々の自己全体の善とは如何なる者であるかの問題が起ってくる。
 我々の意識現象には一つも孤独なる者がない、必ず他と関係の上において成立するのである。一瞬の意識でも已《すで》に単純でない、その中に複雑なる要素を含んでいる。而《しか》してこれらの要素は互に独立せるものではなくして、彼此《ひし》関係上において一種の意味をもった者である。啻《ただ》に一時の意識が斯《かく》の如く組織せられてあるのみではなく、一生の意識もまた斯の如き一体系である。自己とはこの全体の統一に名づけたのである。
 して見ると、我々の要求というのも決して孤独に起るものではない。必ず他との関係上において生じてくるのである。我々の善とは或一種または一時の要求のみを満足するの謂《いい》でなく、或一つの要求はただ全体との関係上において始めて善となることは明である。たとえば身体の善はその一局部の健康でなくして、全身の健全なる関係にあると同一である。それで活動説より見て、善とは先ず種々なる活動の一致調和或は中庸ということとならねばならぬ。我々の良心とは調和統一の意識作用ということとなる。
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