調和が善であるというのはプラトーの考であった。氏は善を音楽の調和に喩《たと》えておる。英のシャフツベリなどもこの考を取っている。また中庸が善であるというのはアリストテレースの説であって、東洋においては『中庸』の書にも現われて居る。アリストテレースは凡《すべ》て徳は中庸にあるとなし、たとえば勇気は粗暴と怯弱《きょうじゃく》との中庸で、節倹は吝嗇《りんしょく》と浪費との中庸であるといった。能く子思《しし》の考に似ている。また進化論の倫理学者スペンサーの如きが、善は種々なる能力の平均であるといっているのも、つまり同一の意味である。
[#ここで字下げ終わり]
しかし、単に調和であるとか中庸であるとかいったのでは未だ意味が明瞭でない。調和とは如何なる意味においての調和であるか、中庸とは如何なる意味においての中庸であるか。意識は同列なる活動の集合ではなくして統一せられたる一体系である。その調和または中庸ということは、数量的の意味ではなくして体系的秩序の意味でなければならぬ。然らば我々の精神の種々なる活動における固有の秩序は如何なるものであるか。我々の精神もその低き程度においては動物の精神と同じ
前へ
次へ
全260ページ中190ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
西田 幾多郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング