したように、善の根本的標準もまたここに求めねばならぬ。然るに他律的倫理学の如きは善悪の標準を外に求めようとしている。かくしては到底善の何故に為さざるべからざるかを説明することはできぬ。合理説が意識の内面的作用の一である理性より善悪の価値を定めようとするのは、他律的倫理学説に比して一歩を進めた者ということはできるが、理は意志の価値を定むべきものではない。ヘフディングが「意識は意志の活動を以て始まりまたこれを以て終る」といったように、意志は抽象的理解の作用よりも根本的事実である。後者が前者を起すのではなく、かえって前者が後者を支配するのである。然らば快楽説は如何《いかん》、感情と意志とは殆ど同一現象の強度の差異といってもよい位であるが、前にいったように快楽はむしろ意識の先天的要求の満足より起る者で、いわゆる衝動、本能という如き先天的要求が快不快の感情よりも根本的であるといわねばならぬ。
それで善は何であるかの説明は意志|其者《そのもの》の性質に求めねばならぬことは明である。意志は意識の根本的統一作用であって、直《ただち》にまた実在の根本たる統一力の発現である。意志は他の為の活動ではなく、
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