えばここに一個の石がある、この石を我々の主観より独立せる或不可知的実在の力に由りて現じた者とすれば自然となる。しかしこの石なる者を直接経験の事実として直《ただち》にこれを見れば、単に客観的に独立せる実在ではなく、我々の視覚触覚等の結合であって、即ち我々の意識統一に由って成立する意識現象である。それでいわゆる自然現象をば直接経験の本に立ち返って見ると、凡て主観的統一に由って成立する自己の意識現象となる。唯心論者が世界は余の観念なりというのはこの立脚地より見たのである。
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我々が同一の石を見るという時、各人が同一の観念を有《も》っていると信じている。しかしその実は各人の性質経験に由って異なっているのである。故に具体的実在は凡て主観的個人的であって、客観的実在という者はなくなる。客観的実在というのは各人に共通なる抽象的概念にすぎない。
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然らば我々が通常自然に対して精神といっている者は何であるか。即ち主観的意識現象とは如何なる者であるか、いわゆる精神現象とはただ実在の統一的方面、即ち活動的方面を抽象的に考えたものである。前にいったように、実在
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