黷驍ニいうのは、その根柢において此《かく》の如きことでなければならない。環境が自己否定的に自己自身を主体化するということは、自己自身をメフィスト化することである。直観的世界の底には、悪魔が潜んでいるのである。我々の自己が個物的なればなるほど、斯くいうことができる。物が直観的に与えられるということは、単に受働的に見られることであるとか、あるいは作用がなくなることであるとかいうのは、知的自己の立場からの非弁証法的見方に過ぎない。作用が我々に逆に向い来る所に、真の直観というものがあるのである。故に真の直観の世界は、我々が個物的であればあるほど、苦悩の世界であるのである。動物的本能の世界においても、個物が自己の中に世界を映すことによって欲求的であり、見ることから働く。しかしそこでは個物は真に個物的ではない故になお直観というものはない。本能的動物は悪魔に囚《とら》われるということはない。直観とは、我々の行為を惹起《じゃっき》するもの、我々の魂の底までも唆《そその》かすものである。然るに人は唯心像とか夢想の如くにしか考えていない。
 矛盾的自己同一的現在として、世界が自己自身を形成するという時、過
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