獅ヘ既に過ぎ去ったものでありながら、自己矛盾的に現在においてあるものである、無にして有である。作られて作るものたる我々に対して、世界は表現的である。我々人間に対しては、環境が何処までも表現的ということができる。而してそれが作られたものから作るものへとして、何処までも我々に迫るという時、我々に直観的である。個人的自己としての我々の作用的存在を動かすかぎり、直観的である。しかし過去は自己自身を否定して、未来へ行くことによって過去である。未来ありての過去である、無論その逆も真である。歴史においては、単に与えられたものはない、与えられたものは作られたものである、作られたものから作るものへと否定すべく作られたものである。我々は作られたものから作るものへの世界の作るものとして、自己自身を形成する世界の形成要素として、何処までもこれに対立する。而して作られたものから作るものへと世界を形成し行くのである。そこに私のいわゆる行為的直観の立場があるのである。絶対矛盾的自己同一的現在として、自己自身を形成する創造的世界の形成要素として個物的なればなるほど、即ち具体的人格的なればなるほど、我々は行為的直観的に
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