ワでも我々に対するものが表現的に我々に迫るということ、即ち表現作用的に我々を動かすということが、物が直観的に我々に現れることである。我々の自己の存在そのものを動かすものが、直観的に見られるものである。上に絶対矛盾的自己同一として作られたものから作るものへという世界においては環境が自己否定的に自己自身を主体化することによって真の環境となるといったが、我々の自己が自己矛盾的にその中に包まれる世界が我々に直観的な世界である。作用が自己矛盾的に対象に含まれ、見ることから働く世界である、いわば我々が何処までもその中に吸い込まれ行く世界である。
 絶対矛盾的自己同一の世界においては、主と客とは単に対立するのでもない、また相互に媒介するのでもない、生か死かの戦である。絶対矛盾的自己同一の世界において、直観的に与えられるものは、単に我々の存在を否定するのではない、我々の魂をも否定するのでなければならない。単に我々を外から否定するとか殺すとかいうのなら、なお真に矛盾的自己同一的に与えられるものではない。それは我々を生かしながら我々を奴隷化するのである、我々の魂を殺すのである。作用が自己矛盾的に対象に含ま
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