A私はヘーゲルにおいても、絶対否定的自覚の立場に到らなかったとも思うのである。いまだ徹底的に主観的卵殻を脱していない。ヘーゲルの一般者は真の個を含むものではない。我々の意志的自己、実践的自己を含むものではない。ヘーゲルの理性は、個人的意志的自己に対立したものである。それだけ主観的である。真に我々の意志的自己の自覚の立場において把握せられた実在の原理ではない。それは我々の知的自覚的自己の原理と考え得るでもあろう。しかし我々の真の実践的自己、歴史的行為的自己の自覚の原理ではない。ヘーゲルの実在界は、そこから我々の自己の生れる世界ではない。そこから我々の自己の生死の原理は出て来ないであろう。意志的自己といえば、単に意識的自己の抽象的意志というものが考えられる。しかしそれは真の実践的自己ではない。実践は一々が歴史的創造でなければならない。我々の自己は、一々の実践的決断において、生死の立場に立っているのである、危機に立っているのである。我々の実践的決断は抽象的意識的自己の内より起るのではない。爾《しか》考えるのは、主語的論理の独断によるのである。私はこれについて多く論じた。
我々の真の自己は、
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