史的実践的自己にあるのである。歴史的行動というものの外に、実践というものがあるのではない。我々が思惟するということも、歴史的行動であるのである。作られて作る所に、我々は自覚するのである。故に我々の自己は歴史的身体的である。然らざれば、それは考えられた自己たるに過ぎない。かかる自己に執着するのが迷である。絶対否定即肯定ということは、判断的自己の立場からいい得ることではない。それは作り作られる歴史的自己の立場、生死的自己の立場においてでなければならない。道元《どうげん》は自己をならうことは自己をわするるなり、自己をわするるというは、万法に証せらるるなりという。我々は抽象的意識的自己を否定した所、身心一如なる所に、真の自己を把握するのである。今や我々はかかる真の実践的自己、身心一如的自己の自覚の立場から、従来の哲学を考え直して見なければならない。私が再びデカルトの立場へと主張する所以《ゆえん》である。しかしかかる立場においての論理は、デカルトの主語的論理でないことはいうまでもなく、ヘーゲルの弁証法とも異なったものでなければならない。ヘーゲルの論理は弁証法といえども、なおアリストテレス的主語
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